紫式部 日記。 新・紫式部日記 / 夏山 かほる【著】

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紫式部 日記

あなたは使い捨てられてはなりませぬ。 第11回日経小説大賞受賞! 選考委員:辻原登・髙樹のぶ子・伊集院静 『源氏物語』を書いた紫式部の一代記。 「紫式部日記」が実在の作品であるだけに、あえて「新」とタイトルにつけフィクションを紡ぎ上げたところに、作者の周到な企みがうかがえる。 本作には最新の源氏物語研究の成果が活かされている。 紫式部の生涯や、『源氏物語』誕生秘話を描いた著作は、専門家によるとそれほど珍しくはない。 しかし、本作は、平安時代においては、物語を書く行為そのものが政治性をおびていたことを明らかにするところが新しい。 「日記文学の傑作、しかも『源氏物語』の作者の日記に新たな日記を捏ち上げ、ぶつけるという、これほどの大胆不敵はない。 パロディならともかく、真正面からオーソドックスに、とはハードルが高過ぎる。 しかし、作者は鮮やかにそのハードルを跳び越え、極上の宮廷物語を物した。 『源氏』を構成の中心に据え、それを下支えする本物の「紫式部日記」、それに被せるように架空の「日記」、そしてもう一つの物語『伊勢物語』を、有機的に、歯車のように嚙み合わせ、重層的な展開が可能になった。 『源氏物語』そのものが、一層の輝きを放って読者に迫って来るという功徳も齎された」 辻原登氏選評より 「紫式部日記」などの作品・文献を下地に、源氏物語や紫式部を利用しようとする藤原道長の陰謀や、紫式部の内面の葛藤などが描かれたフィクション作品。 源氏物語や紫式部日記について知識がある人であれば、史実とされる部分とフィクションの境目を楽しみ、より深くこの作品を味わうことができる。 しかし、古典にほとんど触れたことがない人にとっても、決して堅苦しくなく進んでいくストーリーは読みやすく、非常に面白い。 私自身、古典の知識は浅いものの、紫式部を始めとした登場人物の思いや葛藤に共感し、ハラハラしたり喜んだりしているうちに夢中になり、一気に読んでしまった。 古典ファンだけでなく多くの人に勧めたくなる本でした。 私の古典文学に関する知識は高校生レベルなので、専門的なことはよくわからない。 藤原道長は紫式部のパトロンで中宮彰子のために『源氏物語』を執筆させたと、ずっと思ってきた。 しかし、本書ではかなりの部分まで紫式部が彰子の女房になる以前に書き進められていた、ということになっている。 もともとは彰子の母・倫子のために書かれていたらしい。 現在と違って物語を執筆するための紙は貴重品であり、道長のような権力者でもなければ大量に使用することはできなかった。 だから、『源氏物語』執筆は紫式部が彰子の女房になってからだと思い込んでいた。 それが道長の妻・倫子のために書き始められたとすれば納得できる。 その物語が評判となり、やがて参内していた彰子を通じて宮中にも評判は広がった。 と、なれば道長がこれを利用しないわけがない。 ここから『源氏物語』と紫式部(本書の中では藤式部)の人生がシンクロしてくる。 光源氏のモデルは道長だとも言われてきたが、まさか『源氏物語』で藤壺女御が産んだ子どもまでもモデルがいたとは…。 フィクションだから事実とは限らないが、少なくともそういう推理が成り立つほどの、新しい学説が存在するのだろう。 巻末の参考文献を見てそう感じた。 それにしても、紫式部とは縁のなかったはずのあの人物が重要なヒントを与えてくれるとは。 いったいどこまでが作り事でどこからが事実なのか。 平安女流宮廷文学の知識が少しでもあるととても楽しく読める。

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『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

紫式部 日記

紫式部といえば『源氏物語』を著したことで超絶有名ですが、他にも色々書いていて、その中には『紫式部日記』なるものもあります。 紫式部が書いた日記であるからには、彼女の普段の気持ちや考えが出ているんでしょうなぁ、と若いときに読んだことがあります。 そしたら、何だか清少納言のことをかなりボロカスに書いてあってビックリしたあの日。 『紫式部日記』とは 『紫式部日記』は紫式部によって書かれたとされている日記で、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書かれています。 中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。 史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。 自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。 また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。 引用元: 『紫式部日記』は何気なく書かれた日記ではありますが、当時の宮中の様子を当事者の目線でみることができるので、後世からしたら上等な史料になっています。 清少納言をディスる紫式部 さて、この『紫式部日記』の中で、『枕草子』で有名なあの清少納言について書かれた部分があるのですが、これがおもいっきり清少納言をこき下ろしていて面白いので是非知っておいていただきたい。 『紫式部日記』の中の清少納言 原文はこんなカンジです。 清少納言こそ、したり顏にいみじう侍りける人。 さばかり賢しだち、眞字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬこと多かり。 かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすゝみ、をかしきことも見過ぐさぬ程に、おのづからさるまじく、あだなる様にもなるに侍るべし。 そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん。 古文に強い人は、もうこれを読んだだけで「うわー」ってなるでしょう。 訳してみた 清少納言は、ホンマに得意顔で偉そうにしとる人や。 あんなに賢こそうにして漢字を書き散らしとるその程度も、よう見たらまだまだイケてへんところが多いわ。 こんなふうに人とはちゃうねんと思いたがる人は必ずよう見えへんし、先行きは悪うなってまうばっかりやから、風流ぶってばっかの人は、ひどく無風流でつまらんときでもしみじみと感動してるようにふるまい、また趣深いことを見逃さないようにしとるうちに、自然とそうあったらアカン誠実やない態度にもなるねん。 そんな誠実やない態度が身についちゃった人の将来が、どうして良うなる言えんねん。 なぜ紫式部は清少納言をこき下ろしたのか なかなか辛辣な言葉で清少納言をこき下ろしている紫式部ですが、一体なんでこんな言葉になってしまったのでしょう。 そこには『枕草子』の存在があります。 『枕草子』は清少納言が宮仕えをしていた7年間が、華やかに風流に描かれています。 そして、その中には漢詩を書いて周囲に褒められたという、清少納言自身の自慢話もありました。 清少納言はそれくらいあっけらかんとして社交的な性格だったんです。 それが(おそらく)紫式部には気に食わなかった。 『紫式部日記』を読めばわかりますが、紫式部は清少納言と正反対と言っていいくらいの内気な性格だったようです。 そんな紫式部にとって、キラキラした清少納言は嫉妬の対象でしかなかったんでしょう。 しかし、紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が宮廷を辞してから6年後ですから、2人は会ったこともないんですけどね。 でも、紫式部が出仕したときにもキラキラした『枕草子』はまだまだみんなに読まれるベストセラーでしたから、それで「なんやムカつくわー」ってひとりで日記にシコシコと悪口を書いていたわけです。 夫の悪口を言われた? 今回、これを書くにあたって色々調べているときに、面白いことがわかりました。 『日本の白歴史』というブログの、「」という記事によると、『枕草子』に、藤原宣孝という人物に書かれた部分があります。 この人は、紫式部の夫となる人です。 後に、紫式部の夫となる藤原宣孝と言う人物の服装を『あわれなるもの』という章段で語っています。 宣孝は神社に参拝する時、悪趣味でド派手な服装に身を包み、すれ違う人が二度見するほどであったと・・。 ふむ、紫式部は、もしかしたら「清少納言が過去に我が夫をバカにしたことがある」と思っていたのかもしれません。 だから「あのクソ女~我が夫を~コノヤロコノヤロ」とか言いながら日記に書いていたのかもしれませんね。 最後に 関西風に訳してサックリ書いて終わりにしようと思ったのに、調べてるうちに面白くなってきて色々書いてしまいました。 みなさんも、不用意に日記に人の悪口を書いていたら1000年後に誰かに読まれて「悪口を日記に書いて、暗いやっちゃな~」って思われることになるかもしれないので、悪口もほどほどに。

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『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

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紫式部 紫式部は1000年ごろに活躍した女流作家で、源氏物語を大成させた人として知られています。 紫式部は花山天皇に仕えていた学者である藤原為時の娘として生まれ、998年には藤原宣孝と結婚して娘を設けるなど順風満帆な生活を送っていました。 しかし、3年ほどで藤原宣孝は伝染病によって亡くなってしまいます。 その後、紫式部はその才能を評価され、 藤原彰子の女中として仕え始め、この頃から源氏物語を執筆し始めたとされています。 その後 1008年頃に源氏物語を完成させ、女流作家としての地位を確立しますが、その3年後ぐらいに女中を辞め、1014年ごろに亡くなったとされています。 年表 970年 藤原為時の娘として生まれる。 998年 藤原宣孝と結婚。 1001年 夫の藤原宣孝がなくなる。 1005年ごろ 一条天皇の妃である藤原彰子に仕え始める。 1008年 『源氏物語』が完成 1012年 彰子のもとを去る。 1014年ごろ 紫式部亡くなる 紫式部をとりまく家系図 紫式部という名前は実は本名ではありません。 というのも、紫式部がいたころの日本では女性は自分の親族や配偶者以外には決して本名を教えてはならず紫式部が出ている文献にも彼女の名前は記されていないのです。 では紫式部という名前は何なのかというと ニックネームみたいなもの。 紫式部の父の官職である式部丞と紫式部の代表作である『源氏物語』の重要人物である紫の上を合わせたものだといわれています。 紫式部の性格 紫式部の生活は紫式部日記から見ると かなり真面目であり、結構根暗な性格であったとされています。 紫式部は源氏物語を書いた時、その才覚に嫉妬した女中によって無視される日々を送ることになるのですが、その時には家に引きこもるなどかなり精神的に参ったそうです。 夫は? 紫式部の夫となったのが 藤原信孝。 一番最高の官位は正五位下であり、あまり有名ではありませんが紫式部は夫のことを愛しており、疫病で亡くなった時には「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」という和歌を詠んだとされています。 紫式部の作品 紫式部の代表作といえばやはり 源氏物語。 しかし、紫式部は宮仕えをしている途中に源氏物語以外にも様々な作品を執筆していました。 次はそんな紫式部の作品について見ていきましょう。 紫式部日記 紫式部日記 紫式部日記とは 紫式部が1008年から1010年までの2年間紫式部が体感した宮仕えの様子や人物評をまとめた日記です。 紫式部は藤原道長の娘である 藤原彰子に仕えており、基本的にはこの彰子のことが描かれています。 源氏物語 紫式部の代表作である源氏物語。 桐壺から夢浮橋までの合計54帖からなるこの源氏物語には光源氏や光源氏を取り巻く女性の争いや恋愛などが描かれており、現在でも古典中の古典と評され今も愛されています。 現代における紫式部の評価 紫式部の著作である源氏物語は 世界で最も古い恋愛小説として知られており、当時女性の文学があまり浸透していなかった時期に大成させたことは今もなお評価されています。 また、 源氏物語は平安時代から今に至るまでに読まれてきた大ベストセラー小説して知られており、戦国武将の上杉謙信は源氏物語を愛読していたとされ、国学を大成させた本居宣長は源氏物語に関する解説書を出版しています。 紫式部の名言 「 良いことも悪いことも、後世まで語り伝えたい事柄を、自分の胸におさめておけなくなり、書き記したのが物語の始まりである」 百人一首に選ばれた和歌 「 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに雲がくれにし 夜半の月かな」 日本語訳:久しぶりにめぐり会ったのに、それがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまうなど、まるで雲に隠れてしまった夜中の月のようではありませんか。 紫式部日記では源氏物語を書いた人とは思えないほどの フランクな文調で描かられており、他の女中の悪口とか、紫式部の持論などが熱く描かれているのも特徴の一つとなっています。 紫式部日記の登場人物 紫式部日記は紫式部が体感したことや日々の暮らしがメインテーマとなっていますが、その他にも紫式部を取り巻く女中や貴族たちの評価をしていました。 次はそんな紫式部日記に出てくる人物について紹介していきたいと思います。 藤原 彰子 紫式部が仕えていた女性で御堂関白と呼ばれた藤原道長の娘。 紫式部が仕えていた頃は一条天皇の中宮となっており、天皇の妃として当時藤原家が進めていた摂関政治を支えました。 この紫式部日記では彰子の出産の記録をまとめており、これに関する紫式部の持論などが熱く語られています。 和泉式部 女流歌人の代表格の一人としてたびたび名が挙げられている和泉式部。 和泉式部は紫式部から見たら後輩であり、大変可愛がっていたそうなんですが、ただ非常に男癖がひどいことでも知られており、紫式部日記の中には「 和泉式部と私は親しい仲だ。 和泉式部はおしゃれな手紙を書くし歌もさりげない言葉の美しさが目に止まる。 ただ男癖が悪い。 」と言われています。 赤染衛門 赤染衛門は紫式部から見たら先輩にあたる人物で、小倉百人一首の59番目の「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」などのように月の歌などで知られていました。 赤染衛門は紫式部のことを可愛がっており、紫式部は日記の中で「 夫の大江匡衡と仲のよいおしどり夫婦で、格調高い歌風で歌を詠み散らかしたりすることはなく、ちょっとした時に詠んだ歌は本当に素晴らしい。 」と評価しています。 藤原定子 藤原彰子のライバルとされている藤原定子。 しかし、実際には彰子は定子の息子を天皇にしようとするなど子どもの養育に力を入れており、ライバル関係ではありませんでした。 紫式部日記の中には間接的に載っています。 清少納言 清少納言 紫式部と同じ時期に活躍した女流作家で、枕草子を執筆した清少納言。 しかし、 紫式部は非常に清少納言のことが大嫌い。 紫式部日記の中には「 清少納言は、得意顔で利口ぶって漢字を書き散らしていますが、その知識はまだまだ未熟で足りないことばかりです。 彼女のように、好んで人と違うことを望む人は、最初は面白がられてもやがて飽きられ、その行く末は異様なものになることでしょう。 」と清少納言のことを徹底的にこき下ろしています。 ちなみに、清少納言も紫式部のことが嫌いであり、枕草子には逆に紫式部の悪口がふんだんに書かれています。 藤原道長 藤原彰子の父親であり、紫式部から見たらキーパーソンの一人である藤原道長。 元々、源氏物語も藤原道長が注目し始めてからブームが来たり、源氏物語の光源氏は藤原道長という説があるなど関係性が深いのです。 紫式部日記の中には藤原道長とさの人物評などが載っています。 藤原頼通 藤原道長の長男である藤原頼通。 頼通といえば宇治関白と呼ばれ、宇治に平等院鳳凰堂を建立するなと国風文化に深く貢献したり、彼以降に摂関政治は衰退に向かったりするなど日本史ではかなり重要人物とされている彼ですが、紫式部とはあまり認識はなかったそう。 紫式部日記の中には頼通がどのような生涯を送ったのかについての消息が書かれています。 藤原教通 藤原道長の五男であり、頼通と同じく藤原氏を継いだ藤原教通。 教通は後三条天皇が即位して急激に衰え始めた藤原氏をなんとか立て直そうと奮闘するのですか、紫式部が紫式部日記を執筆していた時はわずか12歳。 そのため、 藤原教通がいるという内容しか書かれていないのです。 紫式部日記は全て実話? 紫式部日記は紫式部の直筆のものであり、全て彼女に関することが書かれています。 ちなみに、貴族たちは基本的に日記をつけて膨大な量の年中行事の作法などを記憶していました。 紫式部も年中行事を覚えるために日記を描いていたのかもしれませんね。 和泉式部と清少納言について 紫式部と同じ時代にいたとされる女流作家である 清少納言と 和泉式部。 紫式部はどちらかといえば閉鎖的な性格であまり積極的に交流することはありませんでしたが、紫式部日記に人物評が書かれているように ある程度の関わりがあったとされています。 和泉式部は恋を多くした女流歌人として知られ、ほとんどの歌が恋の和歌になっているほど男性との関係が深く、清少納言は紫式部とは真逆な性格であったとされています。 紫式部と清少納言はライバル? 清少納言は紫式部とは 真逆な性格と言われていました。 清少納言は著作の枕草子に色々な貴族との交流やなどに自分の知識を自慢するという かなりひけらかしたい性格であったと言われています。 そのため、紫式部と性格が合うわけもなく、日記の中に酷評していたように知識をひけらかしているけどその知識が未熟であると酷評しているのです。 紫式部縁の地 宇治の紫式部像 紫式部の著作である源氏物語の最後の10帖の舞台となった宇治。 宇治は平安時代には貴族の別荘として非常に有名でしたが、だからこそ貴族の恋愛物語である源氏物語の舞台となったのでした。 今では宇治川にかかっている宇治橋に彼女の石像が建てられています。 雲林院 京都市北区にある雲林院は淳和天皇の別荘として造営され、その後寺となり雲林院となりました。 雲林院は応仁の乱によって廃絶されましたが、平安時代には貴族は誰もが知る寺でした。 ちなみに、雲林院の周辺は 紫式部が育った場所とされており源氏物語にも登場しています。 廬山寺 京都市上京区にある廬山寺は 紫式部が源氏物語を執筆した場所として有名な寺です。 今では廬山寺という寺が建っていますが、昔はこの辺りは紫式部の邸宅があったとされており、59歳に亡くなるまでここで暮らしていたとされています。 そのため、境内の中には紫式部が詠んだとされる和歌の石碑が建っており、今も伝えられているのです。 それではまとめに入ります! まとめ まとめです。 紫式部は藤原宣孝の娘として生まれ、藤原彰子に仕えた• 紫式部は内向的な性格として知られており、紫式部日記には女中や貴族たちの人物評が書かれている• 紫式部の著書源氏物語は現在に至るまでにさまざな人に読まれる大ベストセラーとなっている• 紫式部ゆかりの地は京都を中心にある 最後になりましたが、紫式部は女流作家の草分け的存在となり、のちの文学作品にも数多くの影響を与えました。 彼女は女性の活躍の場を広げた人物だったのですね。

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