高畑勲。 高畑勲展

高畑勲 (たかはたいさお)とは【ピクシブ百科事典】

高畑勲

高畑勲プロフィール 略歴 1935年三重県生まれ。 岡山県で育つ。 1959年東京大学仏文科を卒業。 同年東映動画(現・東映アニメーション)に入社。 1968年、劇場用長編初演出(監督)となる「太陽の王子 ホルスの大冒険」を完成。 1974年テレビシリーズ「アルプスの少女ハイジ」全話を演出。 1976年にはテレビ「母をたずねて三千里」、1979年にはテレビ「赤毛のアン」の全話演出を手がけた。 その後1981年公開の映画「じゃり ン子チエ」、1982年公開の映画「セロ弾きのゴーシュ」を監督。 1984年公開の宮崎駿の「風の谷のナウシカ」ではプロデューサーを務めた。 1985年スタジオジブリ設立に参画。 『映画を作りながら考えたこと』(1984)、『十二世紀のアニメーション』(1999)、『アニメーション、折にふれて』(2013)など多数の著作がある。

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ジブリ高畑勲監督、世界で評価される理由は? 宮崎駿監督との比較から作家性を探る|Real Sound|リアルサウンド 映画部

高畑勲

受賞 『』 話題賞 『』 特別賞 『火垂るの墓』 その他の賞 児童福祉文化賞 教育文化映画賞 日本カトリック映画大賞 優秀映画 国際児童青少年映画センター賞 シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞 シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位 モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ ロカルノ国際映画祭名誉豹賞 毎日映画コンクールアニメーション映画賞 長編部門グランプリ アニメーション部門優秀賞 1999年 2015年 オフィシエ 2015年 テンプレートを表示 高畑 勲 (たかはた いさお、 - )は、の、、、。 畑事務所代表、。 、などを歴任、受章。 に東映動画(現・)に入社。 『』で長編をはじめて演出した後、からに移る。 以後『』や『』などのテレビアニメを経て、とともに設立したで監督作を手がけた。 アニメーション研究家からは、類型化されないキャラクターの演技や感情表現を持ち込んだこと、丹念な日常描写で生活感を与えたことや、背景とキャラクターの一体化といった革新的な表現に挑み続けた点を、アニメーションに対する功績として評価される。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年7月) 生い立ち [編集 ] (昭和10年)、(現・)で、高畑浅次郎 の子として生まれる。 (昭和18年)に浅次郎がとなり、へ転居した。 9歳のときにに遭った。 これが高畑の人生における一番強烈な体験だった。 高畑はすぐ上の姉とともに家族とはぐれ、火の雨と猛火のなかを逃げまどい、川のほとりで明け方に冷たい黒い雨に打たれていた。 上京した大学生時代にの詩人・脚本家であるの作品と出会い、影響を受け後に彼の名詩集《 Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳()という仕事を行う。 また、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『』の字幕翻訳も手がけた。 『』の劇場用パンフレットでは(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。 東映動画に入社 [編集 ] 長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受けて、アニメーション映画を作る事を決意。 大学卒業後にに入社。 東映動画による演出助手公募の第一期生で、同期にがいる。 『』で演出助手になり、『』で演出デビュー。 その仕事ぶりを認められ、の推薦により、長編漫画映画『』の演出(監督)に抜擢される。 この作品はのちに高い評価を得た。 しかし、予算やスケジュールの大幅な超過から当時高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった。 その後、、大塚康生、らと共にに移籍、『』後半パートの演出を宮崎と共に担当し、のちのルパンシリーズの原型を作り上げた。 また、映画『』『』の演出を務めた。 この作品は脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『』のルーツとされる。 日本アニメーションに移籍 [編集 ] (のちにに改組)に移籍し、『』『』『』の演出を担当、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。 場面設計だった、絵コンテを担当していたに与えた影響は大きい(詳細は後述)。 『』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。 1977年、Aプロダクション時代に面識のあったがでの『』の再アニメ化を原作者の藤本弘()に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。 高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという。 楠部は高畑を『』の「恩人のひとり」と記している。 テレコム・アニメーションフィルムに移籍 [編集 ] 1980年、『赤毛のアン』が終わりのんびりしていた高畑のもとに、漫画『』の映画化の企画が持ち込まれた。 高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、その後、大阪の下町へのロケハンも敢行した。 1981年に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功した。 その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。 この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた、準主役・竹本テツを務めたを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。 高畑自身、この作品を非常に気に入っており、別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。 その時に使っていた別名は、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった「武元哲」である。 『チエ』が公開された1981年にへ移籍した。 同じ時期に、が自主制作で手がけた『』の監督も担当し、5年を費やして1981年に完成(劇場公開は1982年)した作品はのを受賞した。 『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『』に参加する。 いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する(宮崎駿は一足先に退社していた)。 』に出合い感銘を受けている。 風の谷のナウシカ [編集 ] その後、宮崎が監督する『』に参加しプロデューサーを務める。 この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した。 その結果、水の都の風情をとらえた映画『』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「」が製作を担当した。 しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅をに入れざるを得ない事態となった。 困惑した宮崎はのに相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。 その後、宮崎と鈴木は新作映画『』の製作を目指し奔走することになる。 スタジオジブリ設立 [編集 ] 『風の谷のナウシカ』を制作したは既に解散していた為、宮崎駿と鈴木敏夫は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。 その時、高畑が「なら、いっその事、スタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木等に提案した。 これを受け、、徳間書店が宮崎等の映画製作の為、を設立した。 高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し、への就任を辞退した。 亡くなるまでスタジオジブリに所属していたものの、経営に関わる役職には就かなかった。 また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う、畑事務所を持っていた。 1988年『』の監督を務める。 公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面等、未完成のシーンが残ったままとなり、僅かながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、一旦アニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年に『』で監督に復帰している。 『おもひでぽろぽろ』を作る前に、原作の『国境』を元に、と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、1989年に起きたの影響で企画が流れた。 1994年には自ら原作を手がけた『』を公開、で26億円を得て邦画ではトップとなる。 これは高畑の監督作品でも最高の成績となった。 また、スタジオジブリ時代の監督作では唯一のオリジナル作品である。 1999年に『』を公開した後は、公開作品が10年以上途切れた。 2000年代以降 [編集 ] 2000年代初頭、高畑の次回作と目されたのは『』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念。 鈴木敏夫の発案により、日本の古典『』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調からの『柳橋物語』やの『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る。 鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。 ただ、高畑の場合、自分で絵を描く事が出来ないので、彼のイメージを具現化出来るアニメーターが必要になるので、その点が難しいが何とかすると述べた。 鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。 に高畑が新作長編を製作している事がアナウンスされた。 この年に企画が最終的に『竹取物語』に戻った事が後に明らかになっている. 2009年10月、高畑の新作が『竹取物語』を原作に、『』の様なタッチで描いた作品である事が報じられた。 2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『』で紹介される。 この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。 なかなか進まなくて、大分先になっちゃうかもしれませんが」と語った。 高畑が述べたように制作には時間を要し、約3年が経過した2012年12月になって、スタジオジブリは『』のタイトルで2013年夏に公開予定である事を正式に発表した。 しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期される事が発表され 、同年11月23日に公開された。 アニメーション以外にも、の演出も行なっていた。 晩年には、フランスの監督の長編アニメーション映画『』等の一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出や、原作本の翻訳も手がけた。 2015年6月、アメリカの会員候補に選ばれた。 最晩年に、と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、病状悪化の為、死の3ヶ月前に断念した。 2018年4月5日1時19分、の為、入院先であるで死去した。 満82歳没(84)。 監督としては2013年公開の『かぐや姫の物語』が遺作となった。 高畑の死去は海外メディアでも報道された。 死去から1ヶ月余りが過ぎた5月15日に、で「お別れの会」が営まれ、宮崎駿・・・がコメントを読み上げた。 大塚は『太陽の王子 ホルスの大冒険』でのエピソード等を語り、死去を「悔しくて悔しくてしようがないよ」と述べ 、小田部は2017年の闘病中に高畑から「大丈夫、治るから」と励ましを受けた事を踏まえて「納得出来ません。 これはあべこべです」と悲しみを吐露した。 久石は『風の谷のナウシカ』で起用してくれた事への感謝と「」の制作に高畑が関わった事を紹介し、「お別れは言いません。 心からご冥福をお祈りしますが、またいつか、どこかでお会いしましょう」と結んだ。 (宮崎のコメントについては次節で紹介) また、子息が最晩年の高畑についてコメントし、2017年4月に手術を受けてからは体調不良(発熱、せき、味覚障害)に苦しめられながらも2018年2月までは講演等もこなしていた事、3月10日には共に公園を散歩したが、月末に入院した時には呼吸困難から会話も出来なくなっていた事などを紹介すると共に、「純粋な好奇心と、日頃の勉強から得た発見や着想を、実験的なやり方を交えて、各分野の才能豊かな仲間達と表現し続ける事が出来た。 父は本当に幸せな人間だったと思います」と述べた。 2019年7月2日より10月6日まで、において、遺品の資料展示を含む「高畑勲展」が開催される。 展覧会自体は高畑の生前から企画されており、当初の企画では高畑の好む作品(美術品・映画)と高畑の作品を並べて展示する趣向であったが、高畑が没したことで回顧展になったと説明されている。 宮崎駿との関係 [編集 ] アニメーション作家・映画監督のは(現・)時代の後輩である。 また、『』から『』に至るまで、長年に渡って共に作品を作ってきた盟友でもある。 東映動画時代、組合活動を通じて宮崎に与えた思想的影響は少なくない。 東映動画を離れて以降も共に作品を作り続け、演出面でも宮崎に影響を与えた。 但し、晩年は二人三脚で作品を作る事はなくなっていた。 高畑は宮﨑の事を『「彼自身の猛烈な労働と惜しみない才能の提供」と「おそるべき緊張感と迫力」によって、わたしの怠け心を叱咤し、うしろめたさをかき立て、仕事に追い込み、乏しい能力以上のなにかを絞り出させたのは、宮﨑駿という存在だった。 』、「特に若い頃の彼の献身的で無私の仕事ぶりに日々接する事がなかったならば、わたしはもっと中途半端で妥協的な仕事しかしなかったに違いない。 」と述べている [ 要ページ番号]。 高畑は『』について、「子供達は森にトトロがいる可能性を感じられるようになった」と評価している。 また、宮崎が基本設計した「」を激賞し、その建築的意義を称えている。 また、宮崎は、その三鷹の森ジブリ美術館で開催された「展」で、高畑の演出を評価しながら詳細な解説を行なったり、『』の制作の際には、視点がずっと千尋を追う事に対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていたという。 これは演出に際し、そういう事だけは絶対にやるなと高畑に教わった為である。 鈴木敏夫によると、宮崎が一番自分の作品を見せたい相手は高畑で、宮崎が見る夢には、いつも高畑しか出てこないと話した事があるという。 宮崎・高畑の両名と仕事をした事のあるは、「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんな事はありません」と述べ、高畑の方法論と対峙した結果として、宮崎の作品が生み出されたとして、「高畑さんがいなければ、宮崎さんはを取れなかったと断言出来ます」と指摘している。 宮崎駿の映画はが『』以来、音楽を担当しているが、高畑が、まだ新進気鋭の作曲家に過ぎなかった久石を、この時抜擢したのが最初の出会いとなった。 この起用に関して、当時無名同然の久石を起用する事にレコード会社と製作会社が難色を示し、公開前年の夏から年末にかけて難航する事態となったが、高畑が防波堤となり、反対意見を退けたという。 同じスタジオジブリで映画を制作していた関係だが、興行成績では高畑は宮崎の監督作品に遠く及ばない。 ジブリでの監督作品では最も高いのが『』が26. 5億円であり、宮崎の『』の308億円 とは桁違いの差を付けられている。 『ホーホケキョとなりの山田くん』は、当時ジブリの親会社だった社長のが東宝と「ケンカ」してしまった為、東宝よりも配給力で劣っていた松竹で配給せざるを得なくなった。 これが原因となって製作費に20億円以上かけながら、興行収入16億円弱 ・配給収入8億円弱という失敗 松竹は60億円の興行収入を見込んでいた に終わり、反って赤字が膨らむ事になった。 以後、高畑は次の新作まで14年を要する事となった。 2018年5月15日の高畑の「お別れの会」で宮崎は東映動画時代を出会いから振り返り「教養は圧倒的だった。 僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった」と述べ、自身も参加した『ホルス』で納期や予算を超過する「苦闘」の末に出来上がった初号試写で見たヒロイン・ヒルダが「迷いの森」をさまようシーンの表現に驚愕した体験から「僕等は精一杯、あの時を生きたんだ。 膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕等のものだったんだ。 」と、往時を偲んだ。 演出・仕事 [編集 ] 緻密な構成力を有し、アニメーションでありながら、リアルで自然な説得力のある世界観を追求している。 高畑作品のは自身がまずラフコンテを描き起こし、それを元に優秀なアニメーターが清書するという共同作業で完成される。 各場面のキャラクターの演技をどうするか、その心理を深く考え抜き、アニメーターにも深く考える事を求めた。 自分の考えを押しつけはせず、民主的にアイデアを募り、有機的にまとめており、その中で頭角を現したのが宮﨑だった。 宮﨑と組んだ時には、どんな物語にするか・プロット・一つ一つの情景を綿密に打ち合わせて、共通のイメージが出来上がった時点で絵にしていくという事を繰り返した。 物語を作る際に宮崎は、膨大な量のイメージボードを描いている。 高畑は自分で絵を描かない事で「自分で描く狭さから脱出」出来、『絵描きではないにしても、絵への感覚を研ぎ澄ませて「絵がわかる」という状態を持っていれば……「様々な才能と組む事が出来る」』と述べている。 アニメは「誇張」や「省略」の手法を用いて描く事が主流だった中で、徹底した生活描写や舞台設定を行ない、作品に「」を持ち込んだ。 「」では当時のアニメ界では珍しい、海外へのを行なった。 アニメーションの本流への復帰を目指し、現実の日常生活の自然主義的な描写に留まっていてはアニメーションではないと考え、子供達の想像力を膨らませ、遊びの開放感と発見の喜びを味合わせる方向へと表現を高める事を要求した。 表現が記号やパターンでしか表現されないのでは実在感を感ずる事が出来ないと考え、生き生きとしたキャラクターは生き生きと、美しいものは観客にとっても美しく、楽しい事は楽しそうに、おいしそうなものはおいしそうに実質として表現した。 演出の特色は原作を深く読み込み、ドラマとキャラクターに距離をおいて、に描き切る所にある。 人物に対しては過度な理想を抱かず、に陥るわけでもなく、を基調にしている。 シビアな題材を扱った場合には冷徹ですらあり、タッチの題材であっても、生真面目な視点で物語る。 キャラクターには平板な印象ではなく、靴を脱いだり履いたりといった日常の極めてささいな動作、立ち振る舞い家事等の表現を重視した。 行動の過程をしっかり書く事で行動自体が楽しさや面白さが呼び起こすようにし、また、アニメーションの世界を現実のものとして感ずるようになる演出とショットの構成を求めた。 『』はもの・系・が人気だった当時のアニメ界で、地味な生活や質素な衣食住を丁寧に描いていこうと作られ、20%超えの大成功を収めた。 『』『』では日本の絵画の描線で、スケッチ風の淡彩の画面でやりたいという意志があった。 アニメーターが描いたラフな線が持つ生命力を、そのまま画面に出す事を可能にした。 に対しても非常にこだわりを持っていた。 やのや訳詞も行なっている。 『』で、エンディングテーマ「かあさんおはよう」の作詞、『おもひでぽろぽろ』ではの「The Rose」を翻訳し、「愛は花、君はその種子」とタイトルを付けてに歌わせた。 宮崎駿監督作『』では、シャンソンの名曲「」の訳詞も手がけ、こちらはが歌って話題になった。 そして、『ホーホケキョ となりの山田くん』では、がヒッチコック映画で歌った「」の訳詞も行なった。 宮崎の監督作『』では高畑は「音楽演出」の担当者としてクレジットされている。 また、も手がけており、『』の挿入歌である「バケツのおひさんつかまえた」をと共作。 『かぐや姫の物語』では劇中歌の「わらべ唄」と「天女の歌」を高畑が作詞作曲を手がけた(作詞はとの共作)。 この際、のに歌わせてデモ作りを行ない、に曲のイメージを伝えた。 久石譲や・等、多数のミュージシャンを指名し起用した。 制作のスピードに関しては、宮崎が「パクさんはの子孫です」と喩える程スローである。 『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、製作の遅れの責任を取って、プロデューサーが何度も交代する程であった [ 要出典]。 鈴木敏夫は高畑没後のインタビューで、(ジブリ時代に)高畑が「公開日に間に合わせて映画を作った事が、遂に一度もなかった」と述べている。 『火垂るの墓』では一部カットの彩色が間に合わず、未完成版を公開した。 『おもひでぽろぽろ』の時には遅延が明らかになって、宮崎がメインスタッフに「(間に合わせるには)今までのやり方を全部変えてくれ」と説明した後も、高畑は「今まで通りでいい」と主なアニメーターに話したが、彼等はそれに恐怖感を抱いて作業を早めた為、「何とか間に合った」という。 『平成狸合戦ぽんぽこ』では、鈴木はあらかじめ遅延を見越し、高畑には「3月公開」と伝えた上で本来の公開予定である7月に間に合わせる計略を仕掛けたものの、それでも間に合わなくなりそうになった為、10分削る事を約1ヶ月、高畑と交渉して間に合わせた。 『ホーホケキョとなりの山田くん』では「製作は順調に遅れています」という異色の予告編が作られた。 『かぐや姫の物語』が一旦『風立ちぬ』と同日公開とされたのは、制作作業の遅れ(絵コンテの進捗が1ヶ月で2分相当で、企画から5年経過の時点で30分しか完成しなかった)に業を煮やしたプロデューサーのが鈴木敏夫と相談の末、高畑を奮起させて進捗を回復させる為に打った「大博打」だったという。 予算管理については甘いと指摘されている。 特に、『柳川堀割物語』を監督した際には、高畑が巨額の製作費を注ぎ込んだ為、宮崎駿が調達した資金だけでは足りず、結果的に宮崎が自宅を抵当に入れざるを得なくなるという騒動が起きている。 この『柳川堀割物語』騒動について、鈴木敏夫は「高畑さんはプロデューサーとしては予算管理が出来ても、自分が監督となると際限なくお金を使ってしまう」と指摘している。 また、製作費50億円という日本映画としては破格の予算を注ぎ込んだ『かぐや姫の物語』の完成報告会見では、自ら「お金も時間もたくさんかけてやっと完成した。 お金の事は考えずに作っちゃうのですが、出来てしまうと、後はどう回収するか。 問題はそればかり」と述べた。 『かぐや姫の物語』にこれだけの製作費を投入出来たのは、高畑の監督作品、とりわけ『ホーホケキョ となりの山田くん』を気に入った会長(当時)のが、「高畑さんの新作を見たい。 大きな赤字を生んでも構わない。 金はすべて俺が出す。 俺の死に土産だ」という意向で製作を要請し、氏家の逝去後も、そのパトロンとしての遺志が尊重された事が要因であると鈴木敏夫は述べている。 人物 [編集 ] 血液型O型。 やプロデューサーの、古参アニメーターなどから「パクさん」と呼ばれていた。 東映動画時代に高畑がよく遅刻して朝食として菓子パンをパクパク食べていたことが由来で、同期の池田宏は自分がこのあだ名を付けたと記している。 高畑死後のインタビューでは、高畑について「いい作品を作ることがすべてであってその他のことにはまったく配慮しない人」「よくいえば作品至上主義。 でも、そのことによって、あまりにも多くの人を壊してきたことも事実です」と述べた。 鈴木は、が生前に「高畑さんは僕のことを殺そうとした」と打ち明けたことやスタッフへの怒り方について「その人を鍛えるため、仕事への姿勢を変えるために言うんじゃない。 (中略)逃げ道も作らないし、あとで救いの手を出すこともしない」ことを明かし、高畑がスタッフに対して感謝を示さなかったことを「いっしょに作品を作っているのだから、監督として感謝するのはおかしいという考え方なんです。 論理的なのかもしれないけれど、人間的な感情に欠ける、破綻した考え方ですよね」と評した。 『火垂るの墓』の製作に携わったの新田敞が「や、、いろんな作家と付き合ってきたけど、あんな人はいなかった。 高畑さんと比べたら、みんなまともに見える」と人物評を語ったことも紹介している。 趣味は音楽鑑賞と勉強。 音楽に関しては特に造詣が深く、ピアノも弾け、譜面も読めるが、によるとあまりそのことを表に出さないという。 『かぐや姫の物語』では挿入歌である「わらべ唄」「天女の唄」を作曲している。 かつては宮崎駿や鈴木敏夫と同じく愛煙家だったが、その宮崎と鈴木からの指示により2009年11月より禁煙に踏み切る。 高畑は東大の先輩で良き理解者だった2011年の氏家齊一郎への追悼文の中で、宮崎と鈴木がその後もタバコをやめないことも踏まえ、二人の禁煙の指示は氏家の強い意向を受けてのものであったと記している。 組合活動以来の縁で選挙では一貫してを支持している。 影響を受けた作家・作品 [編集 ] フレデリック・バック [編集 ] 高畑はの『クラック! 』を観て衝撃を受ける。 その後も交流や日本での紹介を行ない、尊敬を持って接し続けた。 2011年にスタジオジブリの企画により、バックの展覧会を日本で開催した際には、高畑は来日したバックとテープカットも行なっている。 高畑はバックの作風を参考にして『』『』を製作した。 スタジオジブリでは2011年に「フレデリック・バック展」を開催した。 バックが亡くなる直前に高畑が自宅を訪れ、高畑の持参した『かぐや姫の物語』を鑑賞してもらっている。 宮沢賢治 [編集 ] 高畑はの作品を8歳か9歳の時に初めて読んだ。 今と違い、児童書など無い頃で夢中になって読み、たちまち賢治の魅力にとらえられた。 豊かな音の表現、登場人物をひっくるめてが生気を漲らせて息づき、美しさと恐ろしさ、澄んだ明るさと暗い混沌、無心と悪意の交錯する、これらの作品は、まるで究極のアニメーション映画、決して映像化する事の出来ない、心の中にしか映し出せないアニメーション映画のように迫ってきた。 なにもかもが、動きと光と色彩と音を伴って、実にありありと子供の高畑には見えた。 等、賢治独特の不思議な言い回しは、口に出してみないではいられないほど魅力的で、兄弟で呪文の様に唱え合って楽しんだ。 また、全集に収録された楽譜付きの楽曲にも親しんだ。 その後、高畑は『』を監督としてアニメーション化する。 他にも『』・『』・『』・『』・『』・『税務署長の冒険』等をアニメーション化したかったという。 ジャック・プレヴェール [編集 ] 高畑はの作品には大学在学中に出会った。 「」や「バルバラ」、「美しい星へ」といったの曲群に多大な影響を受けた。 後にプレヴェールの詩を訳した書籍も出版した。 いわさきちひろ [編集 ] 高畑は長女が幼稚園から持ち帰った雑誌に載っていたの作品である「こどものせかい」の『あめのひのおるすばん』を見て驚いた。 そうして表紙のデザインの美しさ、女の子の不安な気持ちを捉え、心理的なものをこれほど深く表現し得た絵本はこれまでなかったと述べている。 高畑が『火垂るの墓』をアニメーション映画化する際に、制作スタッフにいわさきの絵本『戦火のなかの子どもたち』を読ませた。 この本を読むことで高畑自身が空襲に遭った経験がまざまざと蘇った。 戦争を経験してない制作スタッフたちに当時についての想像力を高めさせるのにとても役に立った。 高畑はいわさきの作品は「一瞬の愛らしさではなく、子どもがしっかりと内面を持って懸命に生きている自立した存在であることを私たちに気づかせ、見事に子どもの「尊厳」をとらえた稀有な画家」であると考えている。 略歴 [編集 ]• 、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる。 、三重県津市に転居。 、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学。 、父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入。 卒業後、岡山大学付属中学校に進学し卒業。 、を卒業、文科二類に入学。 4月、東京大学に進学。 同期に、らがいた。 3月、東京大学卒業。 4月、に演出助手として入社。 『』『鉄ものがたり』『わんぱく王子の大蛇退治』『』『』『』『、』『』『』などに参加。 東映動画労働組合で副委員長に就き、組合運動を通じと知り合い親交を深める。 6月10日、宮崎駿、と共に(現・)へ移籍。 『』『』『』『』に参加。 、宮崎駿、小田部羊一と共に(現・)へ移籍。 『』『』『』『』などに参加。 、宮崎駿の『』に(絵コンテ・演出)参加。 、『』脚本・演出。 、へ移籍。 『』(脚本・監督)公開。 、『』(脚本・監督)公開。 、『』の準備作業をするが米国側と意見が合わず演出を降板。 、『』(プロデューサー)公開。 、設立に参画。 、『』(プロデューサー)公開。 、『』(脚本・監督)公開。 、『』(脚本・監督)公開。 、『』(音楽演出)公開。 、『』(脚本・監督)公開。 、『』(原作・脚本・監督)公開。 、若手演出家養成のための第1期を主催。 、1998年秋のを受章。 、『』(脚本・監督)公開。 、『』(出演)公開。 、『』(原案・脚本・監督)公開。 、のため東京都内の病院にて逝去、82歳没。 手がけた主要作品 [編集 ]• 監督作のみ太字。 タシケント国際映画祭監督賞(『』)• 児童福祉文化賞(『』)• 第36回(『』)• 第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞(『』)• 日本カトリック映画大賞(『火垂るの墓』)• 優秀映画(『火垂るの墓』)• 国際児童青少年映画センター賞(『火垂るの墓』)• シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞(『火垂るの墓』)• シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位(『火垂るの墓』)• モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ(『火垂るの墓』)• 1991年• (『』)• 第49回(『』)• 1995年度長編部門グランプリ(『平成狸合戦ぽんぽこ』)• 第3回優秀賞(『』)• 第12回賞・特別賞• 名誉豹賞• 第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞(『』)• 特別賞「アニメドール」• 第23回アニメーション監督賞• 東京アニメアワード監督賞(『かぐや姫の物語』)• 2015年 フランスオフィシエ• 2015年 著書 [編集 ] 単著 [編集 ]• 『「ホルス」の映像表現』「アニメージュ文庫」、1983年• 『映画を作りながら考えたこと 1955〜1991』徳間書店、1991年 ISBN 978-419-5546390。 『一枚の絵から 海外編』岩波書店、2009年 ISBN 978-4000221771• 『一枚の絵から 日本編』岩波書店、2009年 ISBN 978-4000221764• 『アニメーション、折りにふれて』岩波書店、2013年 ISBN 978-4000220804。 、2019年 ISBN 978-4006023096• 『君が戦争を欲しないならば』、2015年 ISBN 9784002709420 共著 [編集 ]• 宮崎駿・・おかだえみこ『アニメの世界 とんぼの本』( 1988年)• 大塚康生・・藤本一勇『王と鳥 スタジオジブリの原点』( 2006年)• 宮崎駿・『幻の「」』(岩波書店 2014年10月) 訳書 [編集 ]• ジャン・ジヨノ『木を植えた男を読む』訳著 徳間書店 1990• 『キリクと魔女』徳間書店スタジオジブリ事業本部、2003• 『ことばたち』ぴあ 2004年• プレヴェール『鳥への挨拶』編訳(ぴあ 2006年 絵) 関連書籍 [編集 ]• 『作画汗まみれ』 文春ジブリ文庫(増訂版)、2013年 ISBN 4-19-861361-3• 大塚康生『リトル・ニモの野望』 徳間書店、2004年 ISBN 4-19-861890-9• 『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』聞き手森遊机、実業之日本社、2006年 ISBN 4-408-61255-3• 『ユリイカ 詩と批評 臨時増刊 総特集 高畑勲の世界』、2018年7月号• 『高畑勲 〈世界〉を映すアニメーション』、2018年8月• 宮崎駿:「高畑勲さんへ」(2018年5月15日ジブリ美術館での弔辞)、週刊朝日2018年12月21日号、第137-138頁に収録。 『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』、2019年5月 研究実績 [編集 ]• 学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学プロジェクト編 主任研究員・高畑勲『世界の鏡としての身体:シェイクスピアからアニメーションまで』 ISBN 978-4-9903988-0-4 関連する人物 [編集 ] 近藤喜文 [編集 ] は『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』において彼抜きではこの両作はあり得なかった。 『赤毛のアン』などで日常生活の「キャラクターアニメーション」(人物の性格・ひととなりの活写)をこころざして近藤はとても良い仕事をした。 『火垂るの墓』において近藤に課せられた目標は「日本人をちゃんと描こう」ということだった。 こうあってほしいという理想主義的なキャラクターでもなければマンガ的様式的なキャラクターでもない、まぎれもない日本人がこうあった、という現実的なキャラクターでなおかつ日本人の尊厳を保ちながらユーモアをまじえて捉えることはできないかということを目指した。 近藤は自分の作ったキャラクターならば斜め仰向きの顔などどんな難しいアングルでも感じよく描くことができた。 井岡雅宏 [編集 ] 井岡雅宏は『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』で美術監督を務めた。 『赤毛のアン』では色数が多いのに濁らず、しぶいのに空気は澄んで、他の美術の人に比べてタッチは荒く筆あとも残し、明暗を同色で描かず色彩で描き自然の現実感を失わないまま装飾的に描いた。 彼の描いた美術ボードは一枚一枚が「絵画」となっており見飽きなかった。 『ホルス』では朝夕のリアリズムを基調とした現実感のある場面を描いた。 小田部羊一 [編集 ] は高畑の初期作品から長年共に仕事をした同志である。 『ハイジ』『母をたずねて三千里』などではキャラクターデザインを務めた。 小田部のキャラクターはごく簡潔でありながら人間的な温かみと柔軟性を持ち地を通わせることができた。 東映動画を退社する際も共に退社している。 小田部が時代考証を担当した『』(2019年度上期)では、若き演出家・坂場一久(演・)について、東大卒の経歴や長編映画『神をつかんだ少年クリフ(「太陽の王子 ホルスの大冒険」をモチーフにした作品)』担当した経緯について高畑をオマージュさせている。 男鹿和雄 [編集 ] 『平成狸合戦ぽんぽこ』はに美術をやってもらうことを前提に設計した。 男鹿の絵は見る者に自然の実感を喚起する力をもち映画美術としての機能的側面を忘れさせることができた。 自然に対する愛情と適応力・観察眼そしてセンスの良さを持ち合わせた。 百瀬義行 [編集 ] とは1983年に『風の谷のナウシカ』の原画を依頼するために阿佐ヶ谷駅前の喫茶店で初めて会った。 『火垂るの墓』では絵コンテ作画と場面設定・レイアウトを受け持ってもらった。 百瀬の絵コンテは緻密かつ的確でそれを拡大コピーすればそのままレイアウトの基礎になった。 しかも絵に温かみがあった。 百瀬はうまいだけでなく人柄も反映したどこか丸みのある穏やかな絵柄も、人々が普通に見ている感覚にできるだけ近い画角の取り方も高畑の目指す日常的な画面づくりにぴったりだった。 『火垂るの墓』以後の高畑作品全てに百瀬は参加している。 山本二三 [編集 ] は『じゃりン子チエ』の美術を行った。 原作漫画の絵柄の良さを生かしたレイアウトをした。 山本のレイアウトの美術はしばしばリアルな「リアル」を超え第二の「リアル」を画面に作り出した。 氏家齊一郎 [編集 ] は高畑の実質的なパトロンとして高畑を支えた。 『かぐや姫の物語』が氏家の強い希望で作られた。 氏家は『かぐや姫』の進展を心待ちにし脚本準備稿・絵コンテにも目を通していた。 高畑が監督をした世界名作劇場シリーズにおいて、もっとも多くの絵コンテをこなした。 富野は「対象への理解が正確でなければならない、ということを追求してきた監督が高畑勲です」と述べている。 『子供は分かれば見る』と子どもの理解力を舐めてはいけないということを教えられ、何人かが焚き火しながら話しているだけのワンカットに1分以上も費やす場面を作った際も、1分耐えられるセリフやストーリーが作れるのか、それがアニメの勝負だと教えられた。 「街の風景、街灯がそこに立っている意味、つまりは物事の形が持っている意味は、なんとなくではありません。 何より、ガンダム以降、僕は作品作りにおいてハッキリとそういう気を付け方をするようになったんです。 片渕須直 [編集 ] は、『セロ弾きのゴーシュ』で高畑監督と出会い、その後『リトル・ニモ』で演出助手を務めた。 「基準はすごく高いところにあり、大変厳しい方」だったという高畑監督について、 「戦後、 商業的にアニメーションを大きく広げていこう、 という状況の中で、高畑監督はもっと普遍的なテーマを持ったアニメーションができるのでは?と探っていました」と回想。 『』を監督した時に「道しるべとなったのが『火垂るの墓』だった」「高畑さんの子ども時代の体験が反映されている。 戦争を経験していない我々がどうすれば『火垂るの墓』に追いつけるのかと必死になりました。 」「冒頭の空襲の状況、その場に立つと空襲がどう見えるのか、ものすごくきちんと描かれている。 戦争を経験した高畑監督自身の経験からなのだと思います」と言及。 高畑さんは『この世界の片隅に』を繰り返し見て下さったようで、『エールを送ります』との言葉をいただいたのが何よりうれしかった」と語る。 片渕は高畑を「子どもだけでなく、大人も楽しむようになった今日の日本アニメーションの隆盛を築いた一番のキーパーソン」、「センスで作るのではなく、作品の中にセオリーを置いて人物を描く唯一の人とも言える」という 脚注 [編集 ] [] 注釈 [編集 ]• 別名義にテレビ版『じゃりン子チエ』の演出時に使った 武元 哲(たけもと てつ)がある。 池田はその後もプライベートも含め高畑と長く親交を持った。 池田は、高畑に「パクさん」という愛称を付けたのは自分だと記している。 配給収入26億円は、興行収入ベースで約50億円に相当。 これらの企画の存在は当時は外部に秘されていた。 日本映画においては、2000年より、興行成績発表が興行収入ベースとなった。 配給収入は興行収入から劇場の取り分を除いた金額で、通常興行収入の5 - 6割程度とされる。 これに従うと『千と千尋の神隠し』は配給収入ベースで150 - 180億円程度となる。 厳密には制作スタジオであるが授賞対象である。 交流もあったの短編アニメーションについての解説書。 文庫新編、最終章は宮崎駿・鈴木敏夫との座談 出典 [編集 ]• 毎日新聞. 2018年4月6日. 2018年4月6日閲覧。 2018年4月6日. 2018年4月7日閲覧。 NHK NEWS WEB. 2018年4月6日. の2018年4月7日時点におけるアーカイブ。 2018年4月7日閲覧。 2018年4月10日. 2019年4月23日閲覧。 小谷野敦『高畑勲の世界』青土社、2013年、p. 京都大学新聞 京都大学新聞社. 2013年11月16日. , p. 18-19• , p. 160-161. , p. 170-171. 16-23• , p. 254-255. 一般社団法人日本映画製作者連盟. 2019年5月21日閲覧。 7-12• (10月) 閲覧。 記事中にアジア映画専門ニュースサイト「Asian Movie Pulse」からの情報とある。 ねとらぼ. ITmedia 2012年12月13日. 2012年12月31日閲覧。 CINRA. NET. CINRA 2012年12月13日. 2012年12月31日閲覧。 com. エイガ・ドット・コム 2012年12月13日. 2012年12月31日閲覧。 まんたんウェブ. 毎日新聞 2013年2月5日. 2013年2月5日閲覧。 時事ドットコム 2015年6月27日. 2015年6月27日時点のよりアーカイブ。 2015年6月27日閲覧。 西村義明「追悼アニメーション映画監督高畑勲 その志は途絶えない」、『しんぶん赤旗』2018年4月17日付。 、 2019年5月22日閲覧。 Time 2018年4月6日• Die Welt 2018年4月6日• 2018年4月6日. 2018年4月16日閲覧。 文化部 高橋天地 2018年4月14日. 2018年4月16日閲覧。 コラム:佐藤久理子「Paris, je t'aime」 2018年4月26日. 株式会社エイガ・ドット・コム. 2019年3月12日閲覧。 ハフィントンポスト. 2018年5月15日. 2018年5月16日閲覧。 産経新聞. 2018年5月15日. 2018年5月16日閲覧。 2018年5月15日. 2018年5月16日閲覧。 シネマトゥデイ. 2018年5月15日. 2018年5月16日閲覧。 Cinema Cafe net. 2018年5月15日. 2018年5月16日閲覧。 編集部・市川遥 2019年2月25日. 株式会社シネマトゥデイ. 2019年3月10日閲覧。 Ryo Uchida 2019年2月25日. 2019年3月15日閲覧。 取材・文:細谷佳史 2019年2月26日. 株式会社シネマトゥデイ. 2019年3月10日閲覧。 コミックナタリー. 2019年7月2日. 2019年7月3日閲覧。 , p. 『宮崎駿の世界 : クリエイターズファイル』竹書房〈バンブームック〉、2004年、14頁。 , p. 117. ORICON NEWS. 2018年4月21日. 2018年4月21日閲覧。 鈴木敏夫『ジブリの哲学』岩波書店、2008年。 [ 要ページ番号]• 『I am 遥かなる音楽の道へ』久石譲 メディアファクトリー、1992年• 2016年9月28日閲覧。 130. 2018年4月21日閲覧。 2018年4月25日閲覧。 2018年4月21日閲覧。 2018年4月21日閲覧。 2018年4月21日閲覧。 スタイル. 2018年4月8日閲覧。 2018年4月21日閲覧。 高畑さんとは本当に不思議な関係だったと思います」『』2018年6月上旬特別号、キネマ旬報社、pp. 14-17(取材・構成:金澤誠)• 西村義明「映画監督・高畑勲との8年。 」『かぐや姫の物語』パンフレット• 2013年11月7日• 鈴木敏夫「氏家齊一郎という重石」『かぐや姫の物語』パンフレット• 日本語. 文春オンライン. の2018年8月13日時点におけるアーカイブ。 2018年8月13日閲覧。 池田宏「永遠の『先達』のまま逝ってしまったパクさん」『キネマ旬報』2018年6月上旬特別号、キネマ旬報社、pp. 18-19• 今でも緊張の糸はほどけない」『ジブリの教科書 かぐや姫の物語』、2018年、pp. 39-56• 大塚康生・森遊机『大塚康生インタビュー』実業之日本社、2006年、p. 255• , pp. 350-367. , p. 127-130. 2012年12月4日 しんぶん赤旗• 2014年2月1日時点のよりアーカイブ。 2019年5月22日閲覧。 2018年4月11日閲覧。 211. , p. 2018. 6 05:05. 2018年4月6日閲覧. "宮崎駿監督(77)と並ぶ日本アニメーション界の巨匠で、ジブリ映画「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」などを監督した高畑勲氏が5日、に依り、東京都内の病院で死去した。 - TAAFニュース2014年3月20日、2014年3月20日閲覧• 毎日新聞. 2014年3月20日. の2014年3月20日時点におけるアーカイブ。 - 映画. com2014年3月20日、2014年3月20日閲覧• アヌシー国際アニメーション映画祭公式サイト. 2014年7月25日時点のよりアーカイブ。 2019年5月21日閲覧。 - シネマトゥデイ2014年4月19日• 時事通信. 2014年6月10日. の2014年6月14日時点におけるアーカイブ。 東京アニメアワードフェスティバル2015 2015年3月22日• 時事ドットコム. 2014年4月7日. の2015年7月25日時点におけるアーカイブ。 2015年4月7日閲覧。 Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社. 2015年12月2日. 2015年12月2日閲覧。 シネマトゥデイ. 2016年2月7日. 2017年10月12日閲覧。 , p. , p. , p. 108. , p. 118. , p. 123. , p. 131. , p. 130. 2018年4月21日閲覧。 「」『アニメ!アニメ!』。 2018年5月18日閲覧。 参考文献 [編集 ]• 大塚康生『作画汗まみれ』文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、2013年、改訂最新版。 9784168122002。 鈴木敏夫『仕事道楽』岩波書店〈岩波新書〉、2008年。 9784004311430。 高畑勲『映画を作りながら考えたこと 1955-1991』徳間書店、1991年。 978-4-19-554639-0。 978-4-19-861047-0。 高畑勲『アニメーション、折りにふれて』岩波書店、2013年12月。 9784000220804。 関連項目 [編集 ]• 外部リンク [編集 ]• アニー賞 - 代理出席:ジェフリー・ウェクスラー(スタジオジブリ海外事業担当)• (2m45s〜) - [ リンク切れ](2:45~)公式•

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高畑勲

三重県伊勢市生まれ。 1959年に東京大学仏文科を卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)へ入社。 劇場用長編アニメ「太陽の王子 ホルスの大冒険」(68 で監督デビューを果たす。 同僚だった宮崎駿と小田部羊一とともに、AプロダクションでTVアニメ「ルパン三世」(71~72)や、中編映画「パンダコパンダ」(72)、ズイヨー映像でTVアニメ「アルプスの少女ハイジ」(74)、「赤毛のアン」(79)などを演出・監督する。 宮崎が監督した長編アニメ「風の谷のナウシカ」(84)でプロデューサーを務め、85年にはスタジオジブリの設立に参加。 「火垂るの墓」(88)、「おもひでぽろぽろ」(91)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(94)などの名作を生みだし、宮崎とともにスタジオジブリの2本柱として活躍した。 「ホーホケキョ となりの山田くん」(99)以来14年ぶりの長編作「かぐや姫の物語」(13)は、アカデミー賞の長編アニメーション賞にノミネートされた。 国内外で高く評価され、98年に紫綬褒章、15年にフランス芸術文化勲章オフィシエを受章。 18年4月、肺がんのため82歳で死去した。 関連作品(映画)• 6 2019年公開• 5 2018年公開• 1 2018年公開• 2 2016年公開• 7 2013年公開• 6 2013年公開 写真・画像.

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