般若 心 経 解説。 般若心経とは|全文の意味が分かると面白い!般若心経の現代語訳と意味解説

般若心経とは|全文の意味が分かると面白い!般若心経の現代語訳と意味解説

般若 心 経 解説

摩訶原語(梵語、サンスクリット語)の「マハー」の音訳(写音による漢訳)。 意訳(意味による漢訳)では「大」。 「大いなる」という意。 般若原語「プラジュニャー」の音訳。 意訳では「智慧」。 一般的に言われる知(知識、分別知=思量分別する能力)と区別するために「般若」と音訳のままよく用いられる。 また無分別知とも解釈される。 「真実を正しく知る能力」、あるいは「よりよく生きることに関わる深く優れた智慧」の意。 波羅蜜多原語「パーラミター」の音訳。 意訳は「到彼岸」で彼岸(悟り)に到ること。 「完成」とも訳される。 摩訶般若波羅蜜多で「大いなる智慧の完成」と訳すこともできる。 心経心の原語は「フリダヤ」で、心臓の意味であるが、精髄・精要を意味する。 また、ものの中心(芯)という意味がある。 ここでは、「肝心要の教え」の意。 観自在原語は「アヴァローキテーシュヴァラ」で、玄奘は「観自在」と意訳したが、鳩摩羅什は「観世音(観音)」と訳し、智慧輪は両方を取って「観世音自在菩薩」と訳している。 多くの人々をよく観察して自由自在に救う働きを意味している。 菩薩原語「ボーディサットヴァ」の音訳で、菩提薩タ(ばだいさった)の略語。 「さとりを求める者」「求道者」の意。 五蘊原語「パンチャ・スカンダ」の意訳。 「五つの集まり」の意。 五つとは「色」「受」「想」「行」「識」を指す。 「色」は原語「ルーパ」の意訳で「形のあるもの」を意味し、ああらゆる物質的現象として存在するものを指す。 あらゆる存在(形あるもの)が、「色」という漢字に置き換えられてのは、私たちが眼によって見ている対象物としての存在は、色の違いによってその形が認識されると考え、眼で色によってその形を認識しているところのあらゆる存在のことを「色」と漢訳したものと考えられる。 「受」は原語「ヴェーダナ」の訳で、いわゆる「感覚」「感受」のこと。 苦や楽などを感じることをいう。 「想」は原語「サンジュニャー」の訳で、「表象」の意。 つまり知覚・感覚して対象物が意識されることで、青・黄などの色を了解したり、対象物が何であるかを、記憶や想像によって知ることをいう。 「行」は原語「サンスカーラ」の訳で、外界対象を知覚・感覚して、感じ、意識し、認識したものが一定の方向に向かって働いて行くことをいう。 意志するこころの働きである。 「識」は原語「ヴィジュニャーナ」の訳で、「分別して知る」という意。 我々は、眼・耳・鼻・舌・身・意という六根(主体的な認識作用)によって、色・声・香・味・触・法という六境(客体的な対象世界)を認識している。 その認識が眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識であり、「識」はこの六識の総称である。 *十八界 (六根)(六境)(六識) 眼………色………眼識 耳………声………耳識 鼻………香………鼻識 舌………味………舌識 身………触………身識 意………法………意識 一切の存在はこの「色」「受」「想」「行」「識」の五蘊によって構成されているとする。 すなわち五蘊とは、世の中の一切の物質的現象的存在、あるいは物質的現象的存在と精神的作用とが和合したところの存在のすべてをいう。 空原語「シューニヤター」の訳で、原意は「何もない状態」「ゼロ(零)」を意味するが、何もないというのは何も存在しないというのではなく、この世に存在するあらゆる存在は実体的存在ではないことを意味する。 すなわち、あらゆる存在は先の五蘊(色・受・想・行・識)あるいは四大(地・水・火・風)といった要素が関係し合って仮りに和合して存在しているのであって、現象(現に象あるもの)としてはそこに有っても、変化してゆくものであり、永遠に一定不変ではないことをいう。 舍利子釈尊の十大弟子の一人であるとされる「シャーリプトラ」のことで、智慧第一とされる。 舎利弗、鷲鷺子ともいわれる。 色不異空空不異色色即是空空即是色「色」が「空」であることを示したもの。 「色」とは、眼に見えているところのすべての存在のこと。 我々は眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(臭覚)・舌(味覚)・身(触覚)などによって外界のあらゆるものごとを認識するが、最も中心的には眼で物を見て外部の在り方を知る。 その場合、色(いろ)によって形を判断し、認識するので(もちろん遠近感によって、光によって、周波数によって、などなど、種々の認識方法も用いているが)、眼に見えているあらゆるもの、色(いろ)によって認識しているあらゆるもの、つまり、「すべての存在」を「色(しき)」と言う。 「空」とは、すべての物事は因縁和合によって生起している現象であり、ある時、ある場所で、ある条件ののもとに象(かたち)を現しているのであって、ほかのものと関わらず存在し、それ自体でいつまでも変わらずに存在し続けるものではないことを意味する。 つまり、「固定した実体がない」「一定不変でない」「移り変わりゆく」という意味。 ゆえに、色即是空とは、すべての存在は一定不変ではなく、移り変わりゆく、固定した実体がないものであることをいう。 受想行識亦復如是受・想・行・識(前出)も「色」と同様に「空」であることを言ったもの。 諸法この世に存在するすべての物質・現象のこと。 不生不滅「諸法」(あらゆる存在)は「空」であるから、生ずることも滅することもない。 「空」の部分で説明したように、「諸法」はさまざまな要素が関係し合って仮りに和合して存在しているのであって、現象(現に象あるもの)としてはそこに有っても、変化してゆくものであり、永遠に一定不変ではないことをいう。 さまざまに相を変えて存在してゆくのであり、新たに生じたり、全く消滅してしまったりするものではない。 不垢不浄「諸法」は「空」であり、本来、清浄(不垢)であるとも不浄であるとも言えない。 浄・不浄は人間の思量分別によるものであって、本来、存在そのものにはキレイもキタナイもない。 不増不減「諸法」は「空」であって、増えることもなければ減ることもない。 つまり、さまざまな要素がさまざまに結合・和合して一切は存在しているのであって、全体から見れば増えも減りもしない。 たとえば、大気圏を含めた地球上の存在は、箇々の存在は増えたり減ったりしているように見えても、全体としてはその質量には変わりがないようなものである。 無眼耳鼻舌身意眼・耳・鼻・舌・身・意が無いということ。 これらは、次の色・声・香・味・触・法を見聞覚知するもの(主体)であるが、「無い」と言っても、全く存在しないということではなく、本来「空」であることをいう。 無色声香味触法色・声・香・味・触・法が無いということ。 これらは先の眼・耳・鼻・舌・身・意によって認識されるもの(客体)であるが、これも本来「空」であって実体的に存在するものではないことをいう。 無眼界乃至無意識界眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界が無いことをいう。 これも、先の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六境(色・声・香・味・触・法)が本来「空」であるから、六根が六境を認識して得るところの六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)も「空」であることをいう。 ここのみに「界」(要素の意)の語が付されているが、六根も六境も、この六識もすべて「界」であり、合わせて「十八界」という。 仏教では、世界はこの「十八界」より成っていると説き、これらがすべて「空」であることをここでは示している。 無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽十二支の因縁の各支も無く、それが滅尽することも無いことをいう。 これも「無い」とはいっても本来「空」であるからこのように示している。 十二因縁では、因果の法則によって「無明」があるので「行」があり、「行」があるので「識」があり、乃至「生」があるので「老死」があると説き、故に「無明」が滅尽すれば「行」が滅尽し、「行」滅尽すれば「識」が滅尽し、乃至「生」が滅尽すれば「老死」が滅尽すると説くが、『般若心経』では、すべて「空」であるから、そもそも「無明」も無く、もともと「無明」が無いのであるから「無明が尽きる」ということも無いと説いている。 無苦集滅道苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)も無いという意。 生・老・病・死の四苦、これに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦という。 人生はこれらに満ちているという真理。 この四諦説は、まず苦諦を説くが、先に十二因縁について、本来「空」であるから「生」も「老死」も無いとする『般若心経』では、苦・集・滅・道という四つの真理も本来「空」であるとするのである。 無智亦無得真理を悟る智(能証)もなく、悟られるような真理(所証)もないう意。 本来「空」である立場からすれば、このようにも言われる。 無所得所得するものがない意。 本来「空」であるから、これといって得ることのできる確固たるものはない。 心無ケイ礙「心にケイ礙なし」と読むが、原語は「心を覆うものがない」の意。 迷悟・生死・善悪等の意識によって心を束縛されることがないという意味。 顛倒夢想原語ヴィパリヤーサの訳。 正しくものを見ることができない迷いをいう。 究竟涅槃「究竟」とは、原語ウッタラの訳で「最上至極のところ」の意。 行き着くところに行き着く意。 「涅槃」は原語「ニルヴァーナ」の音訳で、一切の迷いから脱した境地をいう。 三世諸仏過去・現在・未来の三世にまします無数の多くの仏たち。 阿耨多羅三藐三菩提原語「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」の音訳。 意訳では「無上正等正覚」。 この上なく正しく平等な覚りのこと。 大神咒原語は「マハー・マントラ」。 「マハー」は前出「摩訶」に同じ。 「マントラ」は真言(如来の真実の語)のこと。 「マントラ」とは、元来ヴェーダに見られる讃歌・祈祷句・呪文を意味するが、それが仏教にとり入れられ、仏教における「呪文」を意味し、さらに「真言」と訳された。 大乗仏教では、「ダーラニー」(陀羅尼)と並んで広く用いられた。 陀羅尼は、漢訳経典では「能持」とか「総持」とか訳され、元来、「すべてのことをよく記憶して忘れない力」を意味し、また、保持するという意味を持ち、当初は仏教の教理や言葉を記憶し、忘れないための祈りの言葉として用いられた。 記憶して忘れないようにするには、口で唱えて覚えるのがもっとも効果的であることは、我々が日頃唱える経典の記憶術としても証明されているところであるが、この口でブツブツと唱えて記憶する姿をさして陀羅尼と呼ぶようになり、ひいては、この唱える言葉(呪文)そのものを陀羅尼というようになった。 現在では「呪文」そのものを陀羅尼と言い、かえって、呪文そのものに「善法を持して散失せしめず、以て悪法をさえぎる力あり」などと解釈される。 特に密教では、「マントラ」あるいは「ダーラニー」は真理そのものであると尊重し、翻訳することなくそのまま口に誦える。 誦えれば真理と合一することができると説かれる。 大明咒真言(マントラ)のことを、また明咒という。 迷いの闇を明るく照らす真言であることによる。 無上咒この上ない真言の意。 無等等咒無等等とは「無比」「比類無い」とい意。 比類のない真言の意。 ギャー諦ギャー諦 波羅ギャー諦 波羅僧ギャー諦 菩提娑婆訶原語は「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー」。 決定的な翻訳は困難であるとされ、古来、不翻(翻訳しない)とされている。 故に漢訳もチベット訳も音訳のみで、意訳していない。 中村元博士は、一訳として、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ」あるいは「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー」と訳している。 「スヴァーハー」は成就などと訳されるが、願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘語である。 (註の作成にあたって、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)を参照した。 ) 仏教の開祖釈尊は、「縁起〔えんぎ〕」という宇宙の真理を悟り、これに基づいた「四諦〔したい〕説」という現実問題の解決法を用い、その中の「道諦〔どうたい〕」すなわち八正道〔はっしょうどう〕(中道)の実践によって、自らの人生問題の解決をはかり、この方法論および実践を用いて、多くの人々の苦悩を救済した偉大な人物、と言うことができる。 簡単に言えば、宇宙の真理を洞察し、私たちが苦しんでいる現実の人生のさまざまな問題を、まず自ら解決し、そして人々をあらゆる苦しみから救った人物、ということになる。 その宇宙の真理をまた呼んで「法」と言い、その在り方を「空」と言い、人生の現実問題の解決方法を「智慧」(般若)と言う。 『般若心経』は、この「空」と「智慧」を説いた、仏教において最も有名なお経である。 ところで、当初、釈尊の仏教は、このようなものであり、釈尊によって多くの人々が救われ、また多くの弟子ができたのは当然のことであった。 そして釈尊亡き後、弟子たちはその教えを多くの人々に伝えてゆくが、当時は書き記して残すということはなされず、しばらくの間は口から口へと教えが伝えられていった(口伝)。 そして教えを確実に記憶する方法として、繰り返し繰り返し反復して言って覚えるということが行われ、これがお経のもととなったのである。 釈尊滅後三〇年くらいまで、(これを根本仏教の時代などという)だいたい釈尊の弟子たちが生存していた頃までは、弟子たちもまとまっており、教えも比較的正しく伝わっていたが、その後しだいに教えが伝承される間に、食い違いが生じ、釈尊滅後約一〇〇年ころ(この時期くらいまでを原始仏教の時代という)には、教団の内部で意見の対立が生じ、保守的な上座〔じょうざ〕部と進歩的な大衆〔だいしゅ〕部に分裂し、その後二〇〇から三〇〇年後には一八から二〇の部派に分かれていった。 この時代が部派仏教の時代である。 この部派仏教の時代の仏教は、学問的な仏教が中心で、経蔵などに説かれている語句を定義・説明したり、種々に分類整理して組織・体系化することが盛んに行われた。 この時代の仏教は、教義の確立という点では非常に大きな功績を残したが、仏教本来の宗教活動、つまり人々の苦悩を救うという実践においてはこれを怠るものであった。 部派仏教の僧侶は、釈尊が教えた遍歴の生活をやめ、王族や豪商などの保護のもとに安定した定住生活を送り、学問や自己の修行(主に冥想)に専念していたのである。 紀元前一世紀頃、このような仏教のあり方に対する反発・批判が巻き起こった。 「これが本当の仏教か」「釈尊が教えた修行者の生き方か」という批判である。 学問化し、哲学化し、形骸化してしまった仏教のあり方に反発する僧侶や在家信仰者が、仏教の革新運動をおこした。 これがいわゆる大乗仏教の運動である。 大乗仏教徒は、従来の部派仏教を小乗仏教と言って批判し、独自の経典を「仏説」の名において作成した。 だから当然のことながら、これらの経典には作者が記されていない。 また、「釈尊がこの時代に教えを説いたとすれば、このように説かれたに違いない」という信念に立って経典を作成した。 これが「大乗経典」である。 大乗経典には、『般若経〔はんにゃきょう〕』『法華経〔ほけきょう〕』『華厳経〔けごんきょう〕』『涅槃経〔ねはんぎょう〕』『阿弥陀経〔あみだきょう〕』などがある。 大乗仏教はその後、これらの経典に基づいて発展していった。 その先駆的役割を果たしたのが『般若経』であり、「空」の思想である。 『般若心経』はこの『般若経』の中の一つであり、この短いお経の中に「空」の思想が凝縮され、収まっているとされる。 つまり、「固定した実体がない」「一定不変でない」「移り変わりゆく」ということである。 ゆえに、『般若心経』に示される有名な「色即是空」とは、すべての存在は一定不変ではなく、移り変わりゆくものであることを言う。 このような「空」の思想が、大乗仏教の基本的教説となったのは、小乗仏教の基本的思想であった「縁起説」(因果関係・相互関係によってあらゆる物事は成り立っているという説)を、さらに自由な立場から実践的に捉えてゆくところにあったと言える。 また、法(教え)の研究(学問)よりも、仏としての実践が重要視され、仏のはたらきとしての「智慧」(般若)と仏の世界に導くための「方便」が強調されたのである。 このような「空」の思想を中心として、大乗仏教は大いに発展し、展開し、多くの教えを生み出していった。 日本の仏教のほとんどは、この大乗仏教の流れを汲み、この『般若心経』(特に玄奘訳)は浄土教以外のほとんどすべての宗派によって重んじられ、講説され、読誦されている。

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般若心経の意味!現代語でわかりやすく解説♪

般若 心 経 解説

呼称 [ ] に収録されている、訳とされる経題名は『 般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『 般若心経』と略称で呼ばれることが多い。 『般若心経』をさらに省略して『 心経』(しんぎょう)と呼ばれる場合もある。 各において用いる場合には、頭部に「仏説」(仏()の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)のをつけて『 仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『 摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)とも表記される。 現存する最古の漢訳文とされる弘福寺()の『碑』に彫られたものでは、冒頭(題名部分)は『般若波羅蜜多心経』だが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『 般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されている。 概要 [ ] を短い文章で説きながら、末尾に Mantra を説いて終わるという構成になっている。 現在までに漢訳、サンスクリットともに大本、小本の2系統のテキストが残存している。 大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したもの ともいわれている。 現在最も流布しているのは訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。 真言はサンスクリットの正規の表現ではない上、色々な解釈が可能であるため定説はない。 の説、説、宮坂宥洪説など、異なる解釈説を行っている。 1992年アメリカのジャン・ナティエ Jan Nattier、当時インディアナ大学準教授 により、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという説が提起されている が、これには原田和宗 や石井公成 による詳細な反論がなされている。 『梵本心経および尊勝陀羅尼』の書き起こし 現存する最古の本(梵本)は所蔵()の本(東京国立博物館によれば後グプタ時代・7~8世紀の写本 )であり、これを法隆寺本(もしくは法隆寺貝葉心経)と称する。 (右図)漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない。 オーストリアのインド学者、 1837-1898 は、「伝承ではに没したヤシという僧侶の所持した写本で請来とされる。 またインド人の書写による6世紀初半以前のものである」と鑑定していた。 古いもののため損傷による不明箇所が多く、江戸時代の以来、学界でも多数の判読案が提出されている。 この他、日本には東寺所蔵の澄仁本などの複数の梵本があり、の中にも梵本般若心経が存在している。 またや等に伝わる写本もあるが、それらはかなり後世のものである。 漢訳 [ ] 一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされる。 、インドより帰還したもまた『般若心経』を翻訳したとされている。 現在、玄奘訳の最古のテキストとされるものは、に建てられた弘福寺(興福寺)の中の『』の後に付加されているテキストである。 2016年9月27日にこれより古い時代のに刻まれた玄奘訳のが北京で発見されたという報道があった。 また玄奘訳とされている『般若心経』は用として最も広く普及しているが、これは鳩摩羅什訳と玄奘訳との双方がある経典は、古来前者が依用されていることを考慮すると異例のことである。 なお玄奘訳『大般若波羅蜜多経』転読は頻繁に行われるが、経典のテキストそのものを読誦することは稀である。 代表的なテキスト [ ] 以下は、代表的な流布テキストである。 ウィキソースに の原文があります。 ウィキソースに の原文があります。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 行時照見皆度一切苦厄不異空空不異色色即是空空即是色亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無、無無無亦無無明尽乃至無亦無老死尽無無智亦無得以無所得故依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切 顛倒夢想究竟三世諸仏依般若波羅蜜多故得故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経 注:()内はよみがな。 旧字体を新字体に改める。 呪と咒の表記揺れはすべて呪に統一した。 また、適宜、句読点を修正した。 なお、羅什訳・玄奘訳とも、「般若波羅蜜(多)」「」「(菩提薩埵)」及び最後の「(しゅ)」の部分だけは漢訳せず、をそのまましている。 また、玄奘訳とされるテキストには版本によって、例えば下記の箇所のように、字句の異同が十数箇所存在する。 空即是色受想行識亦復如是()• 空即是色受想行識 等亦復如是(法隆寺本等法相宗系) 日本における般若心経 [ ] 各宗派 [ ] 日本では仏教各派、特に・・・が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。 は『』を、・は『(妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。 これは該当宗派の教義上、所依経典以外は用いる必要がないとされ、唱えることも推奨されない。 しかし教養的な観点から学ぶことは問題視されておらず、例えば、門主であったは般若心経の講話録を出版している。 では、「根本法華」として重視している。 [ ]また作とされる般若心経の注釈がある。 では、読誦・観誦の対象としている。 日用経典(日課等通常行事用の経典)であり儀典でも用いる(空海のを参照)。 繰り返し読誦する場合は、一回目は、冒頭の「仏説」から読み始めるが、2回目以降の読誦では「仏説」を読まず、「摩訶」から読む慣わしとなっている。 開祖が般若心経を重視したことで、注釈・解釈を著す僧侶・仏教学者が多く、昭和では高神覚昇(1894 - 1948)『般若心経講義』(角川文庫で再刊)、平成の現在では宮坂宥洪『真釈般若心経』、加藤精一『空海「般若心経秘鍵」』(各角川ソフィア文庫)『空海 般若心経の秘密を読み解く』(春秋社)などの著作が版を重ねている。 高神の解釈書は、戦前にNHKラジオ放送で行われ、経典解釈として非常に評価が高く多数重版し、異なる宗派の僧侶や仏教学者からも評価されている。 も、根本経典は浄土真宗と同様に『浄土三部経』だが、祈願の時と食作法(食事の時の作法)にのみ唱える。 では、神社参拝及び本山での朝の勤行後に、の御霊を祀る神棚に向かい三唱することが必須となっている。 日用に用いる場合もある。 では、日用経典の一つ。 名僧で名高い・・が解釈を行っている。 般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典であるという仏説をみなす説が強い。 では、日用経典の一つ。 開祖がの中で解釈し、かつての僧とされた天桂伝尊(1648 - 1736年)の「観自在菩薩とは汝自身である」という解釈が著名である。 また・など般若心経の実践に取り組んだ僧侶も多い。 良寛は般若心経の大量の写経を残しており、種田は般若心経を俳句に読み込んでいる。 では、修験者(などの)が「行」を行う際に唱える。 でも唱えるところがある。 神社(神前)で読誦の際は、冒頭の「仏説」を読まずに、「摩訶」から読む。 また、前もって「般若心経は仏教の全経典の中から選りすぐられた経典であり、それを謹んで捧げます」というような内容の「心経奉讃文(しんぎょうほうさんもん)」を読み上げる場合もある。 在家信者 [ ] 一般の人々にとっては、「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められており、一部には悪霊の力を「空ずる」という解釈もされた。 古くから般若心経の利益で病気が治るという信仰があり、既ににその説話が残っている。 お守りとして所持したり、病気になったときに写経して平癒を祈願したりした人が多い。 には、文字を読めない層のために、内容を絵に表したも製作された。 百瀬明治『般若心経の謎』によれば、これは元禄年間に現在の岩手県二戸郡の八幡源右衛門という人が文字の読めない人向けに創作した後、随筆によって諸国に伝播されブームとなったものであり、文字が読める人たちの間でも判じ物的に楽しまれたという。 一般書籍等 [ ] 現在ではの際によく筆写される。 また手拭いなどにも印刷され、極めて普及している。 解釈書も大量に出版されており、中には般若心経の原意を取り違えたものさえあり、仏教学者が警鐘を鳴らしているような状態である。 サブカルチャーにおける受容 [ ] 2010年9月には、風の伴奏を付け・に読誦させた動画『般若心経ポップ』がに投稿され 、約2日で10万再生、約2週間後には60万再生に達し人気を博した。 その後、派生動画として伴奏が風のものなどが投稿され、それらを集約したも発売された。 また派生動画のひとつ『般若心経』には、視聴者のコメントと言う形で般若心経の現代日本語訳が投稿されている。 翻訳 [ ] 現代の主な翻訳及び解説としては、訳者自身が校訂したサンスクリット原文を含む・訳の岩波文庫本 、高神覚昇の『般若心経講義』 、また臨済宗の僧侶の立場から解釈したの『般若心経入門』 『般若心経』 などがある。 脚注 [ ] [] 註釈 [ ]• は、本経の核心部は心呪の効能を説く後半部と心呪自体であると主張している。 も同様の観点から、般若心経はのお経であり、全部を繰り返すのは無駄であって、最後の明呪だけを繰り返せばよいとしている。 この真言は『般若大心陀羅尼』と同じ真言である。 本経は654年訳出とされ、玄奘の般若心経訳出との関連は不明。 訳経史の概念として、鳩摩羅什までの漢訳経典を「古訳」、鳩摩羅什以降、玄奘までを「旧訳(くやく)」、玄奘以降を「新訳」と言う()• 【北京共同】中国北京の古寺、雲居寺は、同寺が保管していた石に刻まれた般若心経が、唐代の中国の僧で、「西遊記」の三蔵法師として知られる玄奘三蔵による現存する最古の漢訳であることが分かったと発表した。 西暦661年に刻まれたとしている。 中国メディアが27日までに伝えた。 (著作権等考慮して本文・拓本写真省略、• 大蔵経所収の玄奘譯 般若波羅蜜多心經には『一切』の二字がない。 0848c04 - c23)• こばやし しょうせい (1876 - 1937年)茨城県古川市出身。 明治~昭和前期の真言宗僧侶。 出典 [ ]• 福井文雅 「般若心経の核心」 東洋哲学会『東洋の思想と宗教』• 佐保田鶴治「般若心経の実態」 『ヨーガの宗教理念』1976年 、242-315頁• 、小学館• 金岡1973 p. 149• 宮坂2004 [ ]• "The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text? ", Journal of the International Association of Buddhist Studies, vol. 15, no. 2 1992 ,. 原田和宗、「」 『密教文化』 2002年 2002巻 209号 p. L17-L62, :• 原田和宗 『「般若心経」の成立史論 大乗仏教と密教の交差路』 大蔵出版、2010年• 石井公成、「」 『印度學佛教學研究』 2015年 64巻 1号 p. 499-492, :• 梵本心経および尊勝陀羅尼 -• 金岡1973 p. 138• 金岡1973 p. 141-147• 金岡1973 p. 151-152 p. 155-156• 金岡1973 p. 158• 賀・続2017 p. 13の拓本写真には<顯慶六年二月八日造>[661年2月8日に作った]という言葉が以上の報道よりもっと読みやすいです。 『大谷光瑞猊下述 般若波羅密多心經講話』 1922年 大乗社。 - (2010年10月6日アーカイブ分)• 岩波文庫 初版1960年。 角川ソフィア文庫 初版1947年。 祥伝社新書 初版1972年。 講談社学術文庫、2001年。 参考文献 [ ]• 金岡秀友 『般若心経』 、1973 、2001年。 福井文雅 『般若心経の歴史的研究』 春秋社、1987年。 福井文雅 『般若心経の総合的研究:歴史・社会・資料』 、2000年。 涌井和 『般若心経を梵語原典で読んでみる -サンスクリット入門-』 、2002年。 山中元 『サンスクリット文法入門 -般若心経、観音経、真言を梵字で読む-』 、2004年。 宮坂宥洪 『真釈般若心経』 、2004年。 福井文雅 『ヨーロッパの東方学と般若心経研究の歴史』 五曜書房、2008年。 原田和宗 『「般若心経」の成立史論 大乗仏教と密教の交差路』 、2010年。 賀銘・続小玉、王夢楠(編)、2017、「早期<心経>的版本」、房山石経博物館(編)、房山石経與雲居寺文化研究中心『石経研究 第一輯』1、 北京燕山出版所(中国語) pp. 12-28 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (高神覚昇著).

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般若心経秘鍵

般若 心 経 解説

般若心経 観世音菩薩(観音様)は、 真実に目覚める知慧の行(修行)を究められ、 身も心もみな空(無)であることを悟られ、 一切の苦しみから救われる道を示された。 舎利弗(弟子)よ、 形あるものは空であり、 空か形あるものを構成している。 従って、感覚・思い・分別・認識もみな空なのだ。 舎利弗よ、 この世の一切の真実の姿はみな空であって、 生まれる事もなく、なくなる事もなく、 汚れもせず、清らかにもならず、 増えもせず、減りもしない。 故に、空が構成する実相の世界では、 形あるものは何もない。 感覚・思い・分別・認識もない。 そこには、 目・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もない。 形・声・香り・味わい・触覚・心の作用もない。 目に見える世界から、意識の世界まで何もない。 無明(迷い)もなく、無明の尽きる事もなく、 老死もなく、老死の尽きることもない。 苦も、苦の原因も、 苦のなくなる事も、苦をなくす道もない。 教えを知る事もなく、悟りを得る事もない。 何も得る事がないという事を、 菩薩(修行者=仏様)は、真実に目覚める知慧によって あるがままに見る事ができるから、心に障りがない。 心に障りがないから、怖れる事がない。 従って、一切の迷いを離れて、 心のやすらぎに至るのである。 三世(前世・現世・来世)の仏達も、 真実に目覚める知慧によって、 完全な悟りを成就されたのである。 故に、 真実に目覚める知慧である「般若波羅密多」 (偉大なる真理に目覚める知慧で安らぎの世界に至る)の教えは、 大いなる霊力を持った言葉であり、 明らかなる言葉であり、この上ない言葉であり、 他に比類のない言葉である。 従って、 一切の苦厄を除き、真実にして虚しさがない。 そこで、真実に目覚める知慧に至る呪文を説こう。 「行こう、行こう、真実の世界へ行こう。 みんなで共に行き、仏の悟りを成就しよう。 賛否両論あるとは思いますが、 「現代風の曲の歌詞」だと思って、読んでみてください。 超スゲェ楽になれる方法を知りたいか? 誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。 もっと力を抜いて楽になるんだ。 苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、 安心しろよ。 この世は空しいモンだ、 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。 この世は変わり行くモンだ。 苦を楽に変える事だってできる。 汚れる事もありゃ、背負い込む事だってある。 だから、抱え込んだモンを捨てちまう事もできるはずだ。 この世がどれだけいい加減か分かったか? 苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。 見てるものにこだわるな。 聞こえるものにしがみつくな。 味や香りなんて人それぞれだろ? 何のアテにもなりゃしない。 揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。 それが「無」ってやつさ。 生きてりゃ色々あるさ。 辛いモノを見ないようにするのは難しい。 でも、そんなもんその場に置いていけよ。 先の事は誰にも見えねぇ。 無理して照らそうとしなくていいのさ。 見えない事を愉しめばいいだろ。 それが生きている実感ってヤツなんだよ。 正しく生きるのは確かに難しいかもな。 でも、明るく生きるのは誰にだってできるんだよ。 菩薩として生きるコツがあるんだ、 苦しんで生きる必要なんてねぇよ。 愉しんで生きる菩薩になれよ。 全く恐れをしらなくなったら、 ロクな事にならねぇけどな。 適度な恐怖だって、生きていくのに役立つモンさ。 勘違いするなよ。 非常になれって言ってるんじゃねぇ。 夢や空想や慈悲の心を忘れるな、 それができりゃ涅槃はどこにだってある。 生き方は何も変わらねぇ、 ただ受け止め方が変わるのさ。 心の余裕を持てば、誰でもブッタになれるんだぜ。 この般若を覚えとけ。 短い言葉だ。 意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。 苦しみが小さくなったら、それで上等だろ。 嘘もデタラメも全て認めちまえば、苦しみはなくなる。 そういうモンなのさ。 今までの前置きは全部忘れても良いぜ。 でも、これだけは覚えとけ。 気が向いたら呟いてみろ。 心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。 いいか、耳かっぽじってよく聞けよ。 『唱えよ、心は消え、魂は沈まり、 全ては此処にあり、全てを越えたものなり。 』 『悟りはその時叶うだろう。 全てはこの真言に成就する。 』 心配すんな。 大丈夫だ。

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