万葉集 作者。 防人の歌の作者の名前

万葉集とは?歴史と意味解説、有名な和歌一覧!|新元号「令和」の由来も

万葉集 作者

『万葉集』をご存知ですか?名前だけは知っている方も多いはず。 今から約1200年前につくられた日本最古の和歌集です。 『万葉集』には、天皇から一般庶民にいたるまで様々な階級の人々の歌が4536首が集められており、古代日本人の心の原点を垣間見ることができる、とても貴重な書物です。 今回は、『万葉集』の成り立ちや構成、代表歌人などを一緒に見ていきましょう。 『万葉集』とは いつ頃、誰が編集したの? 『万葉集』は、いつ頃誰によって編集されたのでしょうか? 実は、正確にはわかっていません。 『万葉集』には、書物の本文の最初に添える文章である序文や、書物の本文の後ろに添える文章である跋文がなく、また同時代に書かれた他の書物にも『万葉集』について書かれたものがないからです。 しかし、『万葉集』の作歌の中には、誰がいつ読んだのかはっきりと明記されているものも存在するので、いつ頃成立したかが概ねわかります。 最も最新の作歌年月が明記されている歌は、759年1月1日の大伴家持(おおとものやかもち)の作です。 したがって、『万葉集』が759年以降に成立したことは間違いありません。 誰が編集したのか?これもはっきりとしたことはわかりませんが、様々な説があります。 橘諸兄(たちばなのもろえ)とする説、大伴家持とする説、橘諸兄と大伴家持二人で編纂したとする説があります。 しかし、『万葉集』は実に多くの様々な階級の人々の歌が編集されているので、それを一人の手で編集したとは、考えにくいのです。 様々な人の手を借りて、古代の人々の心を詠んだ歌集は作られたと想定されますが、巻第十七から巻第二十までは、大伴家持の歌日記のように編纂されており、巻第十六までにも大伴家持の父・旅人(たびと)や大伴家持の関係者の歌が多いので、最後に編集したのは大伴家持だとする説が現代では有力となっています。 中身はどのようなもの? 『万葉集』には、約400年にわたる(一番古い歌が磐姫皇后の歌と伝えるものですが、これは実作ではなく、後の時代の人が仮託した作と考えられます。 実質上の歌集時代は、629年に即位した舒明天皇以降と考えられ、万葉集最後の歌が759年の作歌年月なので、約130年間とも言えます。 )全国各地、各階層の人の歌がおさめられています。 収録されている歌は4536首。 記名のある作者は約480人おり、天皇・皇后・貴族から、農民や乞食・防人など実に様々な階級の人々の歌がおさめられています。 この全国各地・様々な人々の歌という幅広さが、万葉の歌をより多彩な魅了を持たせ、他の歌集に見られない豊かな人間性を素朴に、率直に表現させているのです。 『万葉集』の「万葉」とは、「万(よろず)の言(こと)の葉」で「多くの言葉を集めた」とする説や、「葉」は「世」すなわち時代の意であり、「万世まで伝わるようにと祝賀を込めた」とする説などが他にも諸説ありますが、いずれも定説とされるものがなく、現在も様々な角度から研究が続けられています。 『万葉集』の歌は、「ますらをぶり」と言われるようにとても素朴で力強く、生命力溢れる伸びやかで大らかな趣が特色です。 ただ、一概にそうとは言い切れず、長い時代の中では、初期は古朴で力強く、後期は優美で柔らかくなっています。 そしてその柔らかさは、後に続く『古今和歌集』などの「たをやめぶり」と評される女性的で繊細優美な作風に変化していくのです。 『万葉集』の表記は、漢字の音と訓を漢字の意味ではなく表音的に用いており、今日では万葉仮名と言われている方法で書かれています。 万葉仮名は、まだ日本が独自の固有文字を持たなかったために、中国から渡来した漢字をそのまま日本語の表記に応用したものです。 そのため、その後の平安時代にはすでにこの万葉仮名は読解が難しくなり、久しく忘れられていました。 しかし、和歌の研究が進み、和歌の復興とともに『万葉集』は勅撰集と考えられて尊ばれるようになり表記方法の研究も進み、解読が勧められたのです。 『万葉集』の歌風 『万葉集』は、約400年間にわたる作品を収められています。 そのため、時代とともに歌風が変わっていきます。 一般的にその特徴は大きく四期に分けています。 詳しく見ていきましょう。 第一期 第一期は、「初期万葉」と呼ばれています。 第34代舒明天皇の時代(629年)から日本史最大のクーデターである壬申の乱(672年)までの時代。 この約40年間は、古代史の中で様々な出来事がありました。 645年の大化の改新から始まった様々な謀反や暗殺、白村江における敗戦、飛鳥から近江への遷都など内外ともに混沌とした時代でした。 しかし、同時に古代中央集権国家の基礎が固められた時代でもありました。 この第一期は、万葉歌風の萌芽期であり注目されるのは、大化改新ほか数々の事件との関係や貴重な伝説などの古代性にもありますが、今まで口頭のみで伝えられてきたようなことが、文字記録として残っていることにあります。 また、この第一期の歌は、集団性・口誦性が強く、古代歌謡や古代民謡との繋がり深く、また呪術的性格が強い歌が多いのです。 芸術的な価値がある優れた歌というよりは、初期万葉歌の多くが宮廷儀礼や民間習俗と深く結び付いており、自然を歌ったり、恋愛を歌っていても、言葉を呪術的に受け止めて自然観や霊魂観を強く意識した歌が多いのが特徴。 主な代表歌人としたは、おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子などが挙げられます。 第二期 第二期は、壬申の乱(672年)から平城京遷都(710年)までの時代。 第40代天武天皇・第41代持統天皇を中心とした時代です。 この時代は、古代史最大のクーデターであった壬申の乱を経て、律令制度が整いだし、天皇を中心として国家が安定と繁栄を迎えた時代でした。 この時期の歌は、万葉歌風の確立・完成期とも言われており、集団から個人の心情を詠うよう変化しており、そして万葉集の特色でもあるおおらかで力強い歌が多くなります。 また、口伝えで語り継がれた神話・伝説・民話などを中心とした口誦文学から文字で書き記される書物などの記載文学への転換期でもありました。 そのため、集団性や呪術的な意図を込めた歌が減り始め、個人の心情を巧みに表現する幅と深みを加えた歌が多くなっていきました。 代表的な歌人は、持統天皇・大伯皇女・大津皇子・志貴皇子・柿本人麻呂・高市黒人などが挙げられます。 第三期 第三期は、平城京遷都(710年)から山上憶良(やまのうえのおくら)が亡くなる733年までの時代。 第二期の代表歌人柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が退場した和歌史にさまざまな個性を持った歌人が開花した時期です。 当時の中国の都である唐の長安京を真似して作られたとされる奈良の平城京において大陸文化の重要性が説かれ貴族や多くの役人たちの間で漢文の学習や漢詩文の述作が広く行なわれるようになった時代でした。 第三期の家風は、そのような中国文学の影響を多く受け、『万葉集』にあるやまと歌が、第二期に比べ、発想や表現が一段と明瞭となり、雅やかなで艶やかな表現がされるようになってきます。 宮廷貴族の間では、雅やかな歌が多く詠まれ、九州の太宰府などでは筑紫歌壇と言われる人々は個の憂悶や思想の表現を詠んだ歌を読み上げたり、各地の伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が数多く活躍した時代でした。 代表的な歌人に山部赤人・大伴旅人・山上憶良・高橋虫麻呂などが挙げられます。 第四期 第四期は、734年から第47代淳仁天皇の時代である759年までと言われています。 この時代は、かの有名な東大寺の造営や奈良の大仏で有名な毘盧遮那仏開眼供養など華やかな出来事も時代である反面、藤原広嗣の乱・橘奈良麻呂の変なども起こり、政治が不安定だった時代でもあります。 この第四期は、万葉歌風の爛熟期と言われており、とても知的で観念的になっていきます。 万葉集の特徴とも言える強い生命力や迫力、素朴さは次第に薄れていきます。 歌人たちは繊細優美な歌を多く詠み、それは平安和歌への過渡期の様相を示しているといってよいでしょう。 この時期の代表歌人たちは繊細優美な歌を多く詠んでおり、これは平安時代以降の繊細優美な王朝和歌へと繋がっていくのです。 代表的な歌人として、大伴家持・大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子など挙げられます。 万葉集の人々 額田王(ぬかたのおおきみ) 万葉初期の代表的な女流歌人です。 生没年は不詳。 鏡王(かがみのおおきみ)の娘と言われています。 天武天皇の妻の一人となり、十市皇女 とおちのひめみこ を生みました。 後に天武天皇の兄である天智天皇に愛されて天智天皇に仕えたと言われています。 作品は、個人的な歌ではなく、斉明・天智天皇の時代の公的な場面において、天皇の代理・群臣の代弁者として歌を詠む専門的な宮廷歌人としての作品が多く見受けられます。 月が出てきて、都合よく潮の流れも良い。 さぁ、今こそ漕ぎ出そう。 ) この歌が詠まれたのは、「白村江の戦い」の時期です。 この戦いは当時の朝鮮半島で勢力を持っていた国々の争いに日本が参戦。 高句麗、百済、新羅、任那の4カ国がありました。 この4カ国の争いに日本からわざわざ出兵を参戦しました。 熟田津(愛媛県松山市の道後温泉付近にあった港)で旅の疲れを癒したのちに再出発する際に、兵を鼓舞し元気づけるために詠まれたと言われています。 また、以下の歌も大変有名な歌です。 この時、額田王は天智天皇の後宮に仕えていました。 大海人皇子は皇太弟で、天智天皇の次の天皇になるべき人でした。 「袖振る」というのは袖この時代では呪式であり、恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せることになり、求愛の表現として使われていた言葉でした。 今は兄である天智天皇の妻となっている額田王に、以前の夫である弟の大海人皇子が隠れて求愛しているという場面を彷彿とさせる一首です。 そして、この後、この兄弟は対立し、古代最大のクーデターである壬申の乱へと発展していきます。 そんな事情をもつ2人の三角関係が疑われる歌ですので、古来からさまざまな解釈がなされてきたようです。 しかし、最近では宴の戯歌だったという説が有力と言われています。 天武天皇(天武天皇) 第40代天武天皇(622~686年)。 父はだ第34代舒明天皇・母は第35代皇極天皇・兄は第38代天智天皇(中中大兄皇子)・妻は第41代持統天皇です。 兄の中大兄皇子を補佐し、天皇中心の中央集権国家の樹立に貢献しました。 その後、兄である天智天皇と対立し、兄の息子である大友皇子と古代史最大の内乱である壬申の乱を起こし、勝利して天武天皇として即位しました。 天武天皇は、身分秩序を確立し・律令位階制導入に大変貢献したと言われています。 また、本格的な都である飛鳥浄御原宮を拡充・国史編纂などにも着手しました。 天武天皇が詠んだ歌で有名なのは、上記に挙げた額田王との贈答歌です。 ) これは、額田王の「茜さす…」の歌に答えて天武天皇(当時は大海人皇子)が詠んだ歌です。 歌の意味をそのまま読み取ると、既に兄の妻となっている前の妻を今でも恋い慕っているという危険な求愛の意味ですが、先にも述べたように宴席での戯れに詠まれたよいうのが有力な説となっています。 また、天武天皇は言葉遊びのような歌も詠んでいます。 すばらしい人である君たちもこの吉野をよく見なさし。 昔のすばらしい人もよく見たこの場所を。 ) 早口言葉のような歌です。 歌が詠まれた場所は、現在の奈良県吉野町宮滝のあたりにあった吉野宮と言われています。 当時の吉野地方は、霊力に満ちた神聖で特殊な場所と考えられていました。 そのため、後に妻である持統天皇も何度も吉野へ訪れており、その霊力の恩恵に授かろうと言われています。 文字を自由自在に巧みに操り、当時の最高権力者である天皇の得意気な表情を彷彿とさせる一首ですね。 持統天皇(じとうてんのう) 第41代持統天皇(645~702年)。 父は在位は686~697年 正式即位は690。 父は第38代天智天皇・夫は第40代天武天皇です。 夫である大海人皇子(後の天武t年王)が皇位継承争いのため、吉野に隠れ住む際にも行動を共にし、壬申の乱の際も数多くの妃の中でただ一人、夫と行動を共にしました。 夫である天武天皇が即位すると、673年に皇后となりました。 686年に天武天皇が亡くなると、皇太子である自身の子である草壁皇子への皇位継承を強く望み実姉の子である大津皇子など政敵を退けていきました。 しかし、草壁皇子が若くして亡くなってしまったため、遺児で自身の孫である軽皇子 後の文武天皇 に皇位継承させるために、中継ぎとして自らが即位して持統天皇となります。 軽皇子が即位して文武天皇となっても太上天皇として政治の中枢を担っていたと言われています。 在位中に、唐の都に倣った藤原京への遷都・飛鳥浄御原令公布・国が農民に田を貸し出しする制度である班田収授法の開始などを実施しました。 中継ぎの女性天皇ではありましたが、政治力が優れており夫である天武天皇の偉業を継承し、精力的に国家の建設に取り組んだとされています。 持統天皇は、とても有名な歌が残されています。 )春は過ぎて夏がやってくるという自然の風景をそのまま詠んでいるように見えますが、実は夏を連れて来る神への祝いや感謝を含んだ祭祀的な意味合いが強いと言われています。 この歌からは、持統天皇の強い意志と気丈さ多才ぶりが伺えますね。 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) 『万葉集』では、大伴家持と並んで有名な歌人。 生没年不詳。 天智天皇から文武天皇のころに仕えた宮廷歌人と言われています。 柿本人麻呂は謎が多く、他の文献には記載がなく『万葉集』でのみ確認されています。 柿本人麻呂の歌の特徴は、枕詞・序詞・対句などを豊富に用いることで、中国文学や外来文化を上手に吸収しつつ、美しく巧みな言葉で飾って表現しています。 『万葉集』が集団の表現から個の表現へ、口誦文学から記載文学へと変貌する時期に活躍した重要な歌人です。 柿本人麻呂の 作は長歌役20首・短歌約60首と言われています。 しかし、これらすべてが人麻呂の自作ではないようです。 柿本人麻呂昔から人気が高く、死後『万葉集』の中では既に、伝説化されており、その後の和歌集『古今集』の序文では、早くから歌仙として神格化されています。 平安末期以降になると、人麻呂を祀る行事「人丸影供 えいぐ 」というものが当時の歌人たちによって催されるほどでした。 ) この歌は、柿本人麻呂の長歌につけられた四首の反歌のうちのひとつですが、人麻呂の歌としてはもっとも有名なではないでしょうか?東の空には朝陽によって真っ赤に染まった空があり、振り返ってみると西の空には月が沈まずに残っている。 一見すると、自然よを詠んだ情景歌に見えますが、柿本人麻呂が詠みたかったのは、おそいままさに沈もうとしている月を亡くなった皇太子・草壁皇子に、東から昇る朝陽を息子である軽皇子に喩え、輪廻転生・親から子への皇位継承を詠んだ壮大な一首と言えるのではないでしょうか。 山上憶良(やまのうえのおくら) 百済からの渡来人と言われていますが真偽は不明です。 奈良時代中期に活躍した万葉第三期の代表的歌人(660~733年)。 遣唐使の一員として唐に渡りました。 その後、726年頃から筑前守(現在の福岡県周辺)となり同地に赴任します。 そこで大友旅人と出会い、「筑紫歌壇」と言われるグループを形成し、漢詩文・倭歌などを盛んに創作したと言われています。 74歳で亡くなったと伝えられており、死を前にして自分の作品を集めて家集を編纂し、そのほとんどが『万葉集』巻第五そのおのとなっています。 遣唐使だったこともあり、漢文学や仏教の豊かな教養があり、愛・貧・老・病・死・人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしている作品が多く、農民や階級が低い人々への温かい真心が込もっている歌が『万葉集』に多くおさめられています。 子を思う親心を表す歌として最も古い歌とも言われています。 子供が泣いているでしょうから。 いいえその子の母である我が妻も私を待っているでしょうから。 ) この歌も教科書などに出てくるので知っている方も多いのではないでしょうか?この山上憶良の歌は、宴席から退出するときに詠んだ歌と言われています。 奈良の都の雅な作風とは、一風違った素朴で、子供や妻を気に掛ける人情味溢れた一首となっています。 現代のお酒の席でも「子供や妻が待っていますから。 」と言われていますと引き止めるのが難しいですよね。 山部赤人(やまべのあかひと) 生没年は不明。 奈良時代の初期から中期の代表歌人です。 三十六歌仙の一人。 『万葉集』には長歌13首・短歌37首の計50首がおさめられています。 その作風は、叙景歌人と言われており、自然の風景を巧みに詠み込み 『万葉集』に新しい境地を拓きました。 この自然を繊細かつ優美に詠む作風はその後の平安王朝の歌人たちにも愛され、『古今和歌集』で紀貫之が、「人麻呂は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」と記されており、、柿本人麻呂より上と評価しており、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられていました。 百人一首にも詠まれている歌です。 雪の降り積もる富士山の威厳と素晴らしさを詠んでおり、まるでこの歌を通してその情景が目に映るようですね。 ) この歌は、天皇の吉野行幸に付き添った際に詠んだ歌です。 この時代は、騒音や明かりもなく吉野の離宮では、夜は吉野川のせせらぎと千鳥たちの鳴く声のみが、真っ暗な夜の空気の中で神秘的に響いた情景を巧みに詠んだ歌と言われています。 神秘的な吉野の一夜を時代を越えて私たちにも伝えてくれる魅力的な一首となっていますね。 大伴家持(おおとものやかもち) 奈良時代の歌人。 父も有名な歌人である大伴旅人です。 『万葉集』第四期を代表する歌人であり、『万葉集』の編纂者とも言われています。 三十六歌仙のひとり。 大伴氏は、もともとは武門の家系ですが、父の大伴旅人・叔母であり女流歌人としても有名な坂上郎女 さかのうえのいらつめ などに影響され歌人として名を馳せます。 若い頃から華やかな恋愛を重ねたようで、叔母の坂上郎女の長女・坂上大嬢 さかのうえのおおいらつめ ・笠女郎 かさのいらつめ ・紀女郎 きのいらつめ など『万葉集』でも有名な女流歌人との相聞歌が数多き残されています。 『万葉集』には長歌・短歌など合計473首が収められており、『万葉集』全体の1割を超えています。 このことからも大伴家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられているのです。 独りで物思いに耽っていると) この歌は、今までの『万葉集』では見られない倒置技法と個人の主観的な感情を表現しており、自らの内面的な世界を伝える叙情詩的な作風となっています。 楽しそうにさえずっている雲雀と、作者の内面にある物寂しさが実に巧みに対比されています。 当時、新年に降る雪は縁起がよいとされていました。 このことから、縁起のよい雪と同じように吉事も沢山ふりかかってきますようにと願いをかけた歌と言われています。 この歌は、『万葉集』の最後を飾る歌であり、万葉の時代のおおらかな作風と、その後の古今集などの歌との橋渡しをしているように思えます。 古代の人々の美しい心に触れる歌集をぜひ詠んでみて下さい! いかがでしたでしょうか?『万葉集』の成り立ちから歌風、代表的な歌人や歌について紹介してきました。 原文は詠めませんが、沢山の現代語訳の歌集が出版されています。 ぜひ古代の人々の美しい琴線に触れてみて下さい。 そして、歌集を持って麗しの奈良に行ってみてはいかがでしょうか?.

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万葉集とは簡単に言うとどんな本?作者や百人一首との関係!

万葉集 作者

元暦校本万葉集 「 万葉集」(まんようしゅう、 萬葉集)は、末期に成立したとみられるに現存する最古のである。 万葉集のはすべてで書かれている(を含む)。 全20巻4,500首以上の和歌が収められており、「雑歌(ぞうか)」宴や旅行での歌、「相聞歌(そうもんか)」男女の恋の歌、「挽歌(ばんか)」人の死に関する歌の3つのジャンルに分けられる。 和歌の表現技法には、、、、などが用いられている。 、から、(防人の歌)、、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまなのが詠んだ歌が収められており、作者不詳のも2,100首以上ある。 7世紀前半から(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から(11年)ごろにかけてとみられ、編纂にはが何らかの形で関わったとされる。 原本は存在せず、現存する最古のは後半ごろの(巻4の一部のみ) 、完本では後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い。 の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「」)、における第一級の史料であるが 、による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、の資料としても重要な史料である。 「」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては上初めて元号の出典がでなく日本の古典となった。 万葉集の成立 [ ] 書名の由来 [ ] 『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。 ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。 これは古来やらに支持されてきた。 仙覚の『万葉集註釈』では、『』の「仮名序」に、 やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける とあるのを引いている。 ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。 そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(や)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。 研究者の間で主流になっているのは、『』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。 編者と成立年代 [ ] 『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、編纂説、編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。 ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。 『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。 巻1の前半部分(1 -53番)… 原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。 万葉集の原型ともいうべき存在。 やが関与したことが推測されている。 の在位期を現在としている。 やが関与したことが推測されている。 、市原王、、らが関与したことが推測されている。 残巻増補…20巻本万葉集 2年()ごろにの手により完成したとされている。 ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。 延暦4年()、家持の死後すぐに大伴継人らによる暗殺事件があり家持も連座したためである。 その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年()以降にようやく完成したのではないかと推測されている。 「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。 この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。 その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説 などがある。 諸本と刊本 [ ] この節のが望まれています。 万葉集の諸本は大きく分けて、「古点本」「次点本」「新点本」に分類できる。 この区分は鎌倉の学僧によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。 その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。 古点とは、5年()にの附訓で、万葉歌の9割にあたる4,000以上の歌が訓をつけられた。 確実な古点本は現存していないが、やによって桂本が古点の一部を存しているという見解が示されている。 ほかには藍紙本も古点を伝えるとの見解を示している。 古点と伝える資料としては、など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれにあたるとの見方もやらによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。 ともあれ、古点とは梨壺の5人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果を指し、、、、、、、、、、、、など、複数の人物が加点者として比定されている。 この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。 このうち、廣瀬本は校訂の冷泉本定家系万葉集と認められる。 (平成5年)に教授の・に発見され、所蔵者である(元同大学教授)の名をとって廣瀬本と称される。 ただし、廣瀬本の奥書にはの( - 、山本金右衛門)や門弟の国学者( - )といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、の『』に依拠した本文や訓の訂正も行われている。 新点本はがした諸本を指し、大きく本系統と本系統に分かれる。 寛元本系統の諸本は伝わらないが、の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。 またやによって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測されている。 西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。 文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、特に西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。 古点本 [ ] 桂本 [ ] 皇室御物。 中期の書写と推定されており、現存する最古の写本である。 巻4の3分の1ほどの109首を収める1巻のほかに、( 栂尾切ともいう)が66首と37首分の目録が残る。 筆とされるが、ほかに、、、とする説がある。 次点の影響が少なく、古点本の面影を残している。 花鳥草木を描いたきわめて美しいが使われ、紙背継目のからの御物といわれる。 その後、室の所有となり、子のがに献上した。 名はこれによる。 (14年)、桂宮家断絶により皇室に入った。 断簡は、、、ほか諸家が所蔵している。 金砂子切 [ ] 平安時代後期の書写で桂本の類である。 巻13の8葉13首のみが現存する。 長歌には訓がない。 を散らしたに書かれており、この名がある。 、石川武美記念図書館等が所蔵している。 嘉暦伝承本 [ ] (3年)にからに相伝した識語があり、この名がある。 鳥の子紙で、である。 巻11の大部分の472首が1帖に収められている。 で次点期を経ているが、『』所収の万葉歌と一致し、古点を伝えている。 松坂高尾家旧蔵で、本居、松本、中山、佐佐木家からを経て、現在はが所蔵している。 また巻11の欠落部分の模写断簡7首が民間にある。 次点本 [ ] 藍紙本 [ ] 平安時代中期ないし後期の書写で、の筆とされるが説などもある。 薄藍色の漉紙にを散らした料紙に書かれていることからその名がある。 巻9の5分の4ほどの110首と111首分の目録からなる1巻が現存する。 そのほかに• 巻1の2首• 巻9の23首• 巻10の4首• 巻18の27首 の断簡が残る。 次節に述べる元暦校本と同系統である。 松平、原、中村家を経て、現在はが所蔵している。 断簡は、石川武美記念図書館、、、、、などが所蔵している。 元暦校本 [ ] (元年)に校合したとの奥書がある。 平安時代中期ないし後期の数筆の寄合書きである。 うち、巻17、18は同筆であり、巻6は鎌倉時代初期の補写と考えられている。 巻3、5、8、11、15、16を除く14巻、計2,617首と2,129首分の目録が現存する。 そのほかに断簡( 難波切ないし 有栖川切ともいう)は巻3、5、8、9、13、15、16を除く13巻148首と目録201首分が残っている。 すなわち15巻にわたる、全歌数の6割以上が現存している次点本では貴重な写本である。 藍と紫の文を漉込んだ鳥の子紙の(補写である巻6は飛雲形を欠く)である。 黒、緑、赤、朱の書き入れがあり、万葉集の本文校訂上最重要である。 減じて江戸時代初期には15冊に、さらに14冊になった。 巻1、4、6、10、12、19の6冊の各一部を分けてからに移り、残る大部分は伊勢富山家、神戸俵屋から、初期に桑名松平家、(天保14年)に、(44年)に古河家に移ったあと、ともにの所蔵となった。 高松宮家旧蔵の6冊、古河家旧蔵の14冊とも、現在は所蔵。 断簡は、、、、図書館、、、などが所蔵している。 、、、らが校訂に使用した。 金沢本 [ ] 所蔵。 筆とされるが、、説もある。 粘葉装、1帖。 胡粉引きの白を主として、ほかに薄茶、浅葱、黄の色に、金銀切箔を散らし、による菱唐草や亀甲などの文様を雲母刷りした唐紙を料紙とする。 巻2の約5分の4の129首および150首分の目録と、巻4の約4分の1の79首をあわせ1帖とする。 そのほかに巻3、4、6の24首と76首分の目録の断簡が現存する。 本文と訓は元暦校本・紀州本にもっとも近い。 旧蔵による名称。 (43年)に前田家からに献上された。 断簡は逸翁美術館等が所蔵している。 また古筆手鑑『』に収められている。 天治本 [ ] (元年)に書写との奥書があり、名称はこれに由来する。 これは万葉集最古の書写記録であり、後述の巻2断簡は(4年)の書写。 巻13の完本と巻15の58首の1巻および• 巻2の6首• 巻10の42首• 巻14の10首• 巻15の25首 の断簡( 仁和寺切ともいう)が現存する。 檀紙の巻子本で墨罫があり、寄合書だが巻14と巻15は同筆である。 忠兼本を書写した本で、仙覚本底本系統である。 福井家との所蔵。 断簡は、加藤、熊沢、角田、沢瀉、武田、岡村、池上、久曾神家および、京都国立博物館、天理図書館、石川武美記念図書館、、五島美術館などが所蔵している。 (2年)にが京都所蔵の零本5巻(現存しない)を影写して『 検天治万葉集』を作成して• 巻2の9首• 巻10の4首• 巻14の10首• 巻15の11首• 巻17の4首 が残っている。 したがって総計306首が現存する。 こちらは京都大学所蔵である。 伝壬生隆祐筆本 [ ] 鎌倉時代中期の書写。 書写者の伝承による名称だが、確証はない。 もと冊子本を巻子本にしており、巻9の前半85首を3巻にしたものと後寄りの4首の断簡が現存する。 天治本と同系で、仙覚本底本系統である。 四日市高尾家旧蔵で、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。 尼崎本 [ ] 平安時代末期の書写。 雲母引斐紙の料紙で綴葉装。 巻16の全1帖(1枚を欠く)101首と、巻12の61首の断簡、11首の模写が現存する。 天治本系で、仙覚本底本系統であり、『類聚古集』に近い。 断簡が尼崎から出たことによる名称。 倉敷某家から京都大学が所蔵している。 断簡は池上、亀井、反町、渡辺、酒井、沢瀉、田中、辻坂家および、、天理図書館、石川武美記念図書館、白鶴美術館、出光美術館などが所蔵している。 模写は東洋文庫が所蔵。 古筆手鑑「桃花水」「心画帖」「鸞鳳帖」「筆鑑」「筆林」に所収されている。 伝冷泉為頼筆本 [ ] 半紙形袋綴1冊で、巻1のほぼすべて83首を記載する。 ただし目録には後の補校合がある。 訓はカタカナで、長歌は本文右に、短歌は左別行に記している。 江戸時代初期の筆と伝えられるが、カナに古体があり室町時代の書写と考えられている。 尾張久米家、阪家、佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。 春日本 [ ] 鎌倉時代中期の(元年)と翌年に若宮の神官が書写したとの奥書があり、名称はこれによる。 多くが春日若宮神官の和歌懐紙の裏側使用の断簡なので 春日懐紙切ともいう。 もとは袋綴。 巻5の24首と書翰2• 巻6の37首と目録30首分• 巻7の100首と目録217首分• 巻8の54首と目録38首分• 巻9の8首• 巻10の15首• 巻13の14首• 巻14の37首• 巻19の16首• 巻20の77首 の合計382首と目録285首分と書翰2以上が現存する。 懐紙の和歌を鑑賞のため万葉歌を削っているので判読が困難なものが多数ある。 本文の右にカタカナで訓をつけるが、仙覚以前の次点本である。 前田家旧蔵だが明治初期に諸家に分散して、松岡、関戸、福井、吉永、谷村、八木家および、國學院大學図書館、石川武美記念図書館、、などが所蔵している。 紀州本(神田本) [ ] 全巻20巻の前半巻10までが次点本。 鎌倉時代末期の寄合書きである。 ただし巻7が2首を欠き、巻10で1首が重出する。 鳥の子紙、元来粘葉本を綴本に改装している。 訓をカタカナで漢字の右側に付すが、新点の訓が左側などに加えられている。 後半巻11以降は室町時代後期、(11年)以前の文永三年本系新点本による補写である。 後藤家が所蔵している。 水戸徳川家の『四点万葉』に校合し、契沖の『万葉代匠記』にも引用されている。 『類聚古集』 [ ] 歌体や題材により歌を分類している。 平安時代末期の書写。 3834首が現存する。 中山家、大谷家を経て、が所蔵している。 『古葉略類聚鈔』 [ ] これも歌体や題材により歌を分類している。 (2年)の書写で、1,934首が現存する。 奈良と石川武美記念図書館が所蔵している。 その他の断簡類 [ ]• 伝俊寛筆切 鎌倉時代の書写。 巻1の2葉2首のみだが、本文、訓とも元暦校本に近い。 竹田家の所蔵。 定家様切 鎌倉時代末期から室町時代初期の書写。 巻1の1葉3首のみ。 書風による名称。 為頼本と同系統である。 滋賀の所蔵。 影写で知られる。 橋本経亮影写中臣祐春筆切 巻19の1葉3首のみ。 春日本中臣祐春祐春の影写で、稲葉家の所蔵。 後京極様切 鎌倉時代の書写。 巻7の4葉8首。 元来は冊子本であった。 訓はカタカナで本来は本文の右に付すが、のちの補筆では左に付す。 系統不明ながら次点本で、紀州本や『類聚古集』に近い。 後京極摂政の書風による名称。 佐佐木家を経て、石川武美記念図書館ならびにハーバード大学フォッグ美術館の所蔵。 伝解脱上人筆切 鎌倉時代初期の書写。 巻9の1葉2首と巻10の1葉4首。 素紙、六半形本にカタカナ傍訓で、二条院御本と関係がある。 『 古筆名葉集』による名称だが、書風から 為家様切とも呼ばれる。 佐佐木家を経て石川武美記念図書館の所蔵、および小西家の所蔵。 伝教家筆切 鎌倉時代の書写。 巻3の1葉3首のみ。 カタカナ傍訓で、紀州本、細井本と一致するものがある。 の書写との伝承による名称。 加藤家を経て伊東家手鑑所収。 橋本経亮影写無名氏筆切 鎌倉時代の書写。 巻10の1葉4首のみ。 カタカナ傍訓で、『類聚古集』の訓に近い。 冒頭の記載による名称。 稲葉家の所蔵。 伝為家筆切 鎌倉時代中期の書写か。 巻1の1葉3首のみ。 斐楮交ぜ漉き紙を用い、傍訓をひらがなで書いている。 箱書による名称。 の所蔵。 柘枝切 鎌倉時代末期から南北朝時代初期の書写。 巻3の1葉2首のみ。 楮紙で、元来は巻子本か。 傍訓は古体のカタカナで京大本赤訓に近い。 詞句による名称。 佐佐木家を経て石川武美記念図書館の所蔵。 『万葉集目録』 平安時代後期の書写。 巻16の1葉5行のみ。 鳥の子紙に書かれる。 近衛家の所蔵。 元来は全巻分あったと考えられるが、残存していた2巻2葉はで焼失し、1葉だけが残った。 原本の影写本が『万葉集叢書10』所収である。 新点本 [ ] 新点本ではほとんどの場合、傍訓形式で訓を本文の右側にカタカナで記している。 うち文永本は古点、次点、新点のうち正しいと考えられた訓を多くの場合、色分けして右側に記している。 それに対し寛元本では古点、次点を右側に、新点を左側に書いている。 神宮文庫本 [ ] 楮紙で袋綴じ。 全巻20冊だが• 巻1の1葉3首• 巻2の1葉1首• 巻19末尾歌の左注以下の尾題 を欠いている。 (15年)以前の室町時代後期の書写。 寛元本系の現存する最古の写本である。 外宮宮崎文庫を経て、現在はが所蔵しており、この名がある。 細井本 [ ] 楮紙で袋綴じ。 全巻20冊だが、巻4の後半273首に代わって巻3の後半107首が重複して書かれている。 全体は江戸時代初期に書写された寛元本であるが、巻4、5、6は室町時代末期の書写で為頼本と同系統の次点本である。 (9年)にが温故堂本と校合し奥書を記していることから、この名がある。 を経て、現在はが所蔵している。 林道春校本 [ ] その名の通りが江戸時代前期に細井本を書写したものである。 現在はが所蔵している。 後述の版本の活字無訓本はこれを底本にしている。 学習院本 [ ] 江戸時代の書写であり、基本的には寛元本系だが、巻5、6は次点本系である。 図書館所蔵で、この名がある。 今出河本 [ ] 江戸時代前期の書写である。 寛元本系だが、巻4、5、6は文永本系である。 現在はが所蔵している。 西本願寺本 [ ] 西本願寺本は後期の末から初頭の書写と推定されている、20冊の冊子本である。 縦が約32. 1センチ、横が約24. 8センチの大きさで、「」という装丁がなされている。 この写本は、(3年)に仙覚が完成させた『仙覚文永三年本萬葉集』(原本は失われている)の系統に属している。 仙覚と親交があったが完成後間もなく書写したものを、さらに書写したものと考えられている。 さらに滅亡後にが北条実時の創建になるに使者を遣わして貴重な書籍を収集した折に、『』(大きさ、装丁が酷似している)などとともに入手し、後年皇室に献上したものである。 その名称は、が本願寺第10世のに下賜して、の蔵書となったことから、が命名した。 (6年)に佐佐木の手に渡ったあと、現在は佐佐木が寄贈した「」内の一点としてが所蔵している。 田中本 [ ] 西本願寺本を書写したものである。 題詞が低い。 訓を黒、紺青、朱に書き分けるのは文永本に準ずるが、この写本では紺青を朱、黄、緑に分けている。 室町時代末期の書写で、各巻は別人の筆になる。 所蔵者による名称。 河野本 [ ] (5年)にが西本願寺本を書写したもの。 の四点万葉に校合し、訓を黒、青、朱、黃に書き分けている。 『万葉代匠記』にも 幽斎本として引用される。 が所蔵している。 金沢文庫本 [ ] 室町時代初期の書写だが、、筆との説もある。 元来大型冊子本だったものを巻子本にした。 巻1、9、19の全歌4巻(巻19は二分されている)と• 巻7の10首• 巻12の84首• 巻13の18首• 巻14の3首 の断簡と巻13の3首の影写が現存する。 このほかに巻11は関東大震災で焼失したが、『校本万葉集』に校合されているのと、木村正辞の『万葉集書目提要』に巻4が記されている。 文永三年本系であるが、巻11と巻19は文永十年本寂印成俊本系。 題詞は低く書かれ、巻7、9、11、12、13、19は訓を黒、紺青、朱に書き分ける。 に伝来したことによる名称である。 巻1、19は旧蔵で、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。 巻9は馬越家の所蔵。 断簡は、久曾神、酒井、久松、渡辺、池上、藤井家および、、天理図書館、、京都国立博物館、MOA美術館、などが所蔵。 また古筆手鑑『』に、影写本は東洋文庫『』に所収される。 陽明文庫本 [ ] 全巻20冊であるが、巻10の152首を欠いている。 鳥の子紙で大和綴。 旧蔵による名称であるが、巻9に(2年)の奥書があるため 元亀本とも呼ばれる。 しかし同年以後の書写である。 文永十年本頼直本系で、黒、紺青、朱の訓が残る。 温故堂本の書写の際に底本にされている。 から近衛家を経て、現在は図書館が所蔵している。 温故堂本 [ ] で、全20巻を合本して10帖にしている。 そのうち• 巻6の目録の初め28首分• 巻10の152首• 巻19の1首 を欠いており、巻6は温故堂一伝の東京帝国大学本から木村正辞が補写したものである。 文永十年頼直本系の陽明文庫本を書写したが、紺青訓がなくその部分は空白が多い。 木村正辞から東洋文庫が所蔵している。 東京帝国大学本 [ ] 袋綴で、全巻20冊。 等が温故堂本を書写した。 東京帝国大学旧蔵による名称。 関東大震災で焼失したが、温故堂本に欠けている部分が『』に校合されている。 大矢本 [ ] 室町時代末期、数人の筆による書写。 袋綴で全巻20冊であるが、• 巻12の1首• 巻19の6首• 6首の訓 を欠いている。 文永十年本寂印成俊本系で寛永版本の巻7の錯簡を補う資料として重要である。 旧蔵による名称だが、元は京都木田家蔵で、大矢家、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。 近衛本 [ ] 江戸時代初期の書写。 大型袋綴で、20冊の全本。 文永十年本寂印成俊本系であるが、中院本に見られる禁裏御本巻1、20の奥書がある。 大矢本と同系であるが、無訓歌は5首のみで書写字形も明瞭で、より善本である。 近衛家陽明文庫所蔵で、この名がある。 京都大学本 [ ] 江戸時代初期の書写。 袋綴で、20冊の全本だが巻19の1首を欠いている。 文永十年本寂印成俊本系である。 巻1、2、9、13、20に禁裏御本の奥書があり、全巻にわたって赤で禁裏御本と校合した書き入れがある。 巻1の奥書には古万葉集序を記す中院本のひとつで、寛元本の内容を知り得る貴重な写本である。 京都大学図書館が所蔵している。 その他の諸本・断簡 [ ]• 谷森本 江戸時代初期の書写で、袋綴。 巻1を欠く19冊。 中院本系。 題詞は低く、巻3と巻4に青訓がない。 所蔵者による名称だが、関東大震災で焼失した。 谷森氏一本 江戸時代初期の書写で、袋綴。 全20冊。 中院本系。 後半は谷森本を書写したもの。 所蔵者による名称だが、関東大震災で巻1と巻2が焼失した。 多和文庫本 江戸時代の書写で、中院本系。 谷森本の一伝本。 松岡家多和文庫所蔵による名称。 伝空性法親王筆本 江戸時代初期の書写で、中院本のひとつである。 書写の伝承による名称。 前田家が所蔵。 岩崎文庫一本 江戸時代初期の寄合書で、中院本系。 岩崎文庫所蔵による名称だが、現在は東洋文庫所蔵。 図書寮一本 江戸時代初期の書写だが各巻別筆で、大型袋綴。 巻1、2、14を欠く17冊。 文永十年本寂印成俊本系で、黒、朱のほかに巻5以外は青紺訓がある。 巻5、19、20を除き禁裏御本と校合されるが、奥書はない。 所蔵所による名称。 伝清輔筆切 鎌倉時代中期の書写。 巻10の1葉2首のみ。 カタカナ傍訓で青紺訓がある。 西本願寺本に近い。 極書による名称。 久曾神家が所蔵している。 八田切 鎌倉時代末期の書写で紹巴筆との説もある。 巻10の1葉2首のみ。 歌は低く、カタカナ傍訓。 神宮文庫本などに近い。 歌詞による名称。 佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。 為氏様切 鎌倉時代末期の書写。 雲母引きの鳥の子、四半形本の断簡。 巻10の1葉2首のみ。 歌は低く、カタカナ傍訓。 西本願寺本等に近い。 書風による名称。 佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。 伝貫之筆切 鎌倉時代または平安時代末期の書写。 巻19の1葉3首のみ。 歌が低く、カタカナの傍訓に文永本の特徴がある。 箱書による名称。 『日本の書』(講談社、1978年刊)に所収。 桂様切 室町時代の書写。 巻7の4葉18首、巻8の4葉11首のみが現存する。 文永本系で、桂本を真似た金銀泥下絵があり、それによる名称。 団、酒井家および東山御文庫、石川武美記念図書館、京都国立博物館などが所蔵している。 伝慈鎮筆切 室町時代の書写。 巻3の1葉3首のみ。 鳥の子で元来巻子本、歌が高くカタカナ傍訓で新点本系とともに推定されている。 極書による名称。 天理図書館が所蔵している。 伝為継筆切 巻4の目録1葉6首分のみ。 系統は不詳。 極書による名称。 古筆「凌寒帖」所収。 版本 [ ] 活字無訓本 [ ] 江戸時代初期の刊行であり、初めての万葉集の版本である。 全巻だが10冊のものと20冊のものがある。 歌を高く記し、題詞と左注は1字低い。 全体は寛元本系だが、巻4、5、6は細井本系の林道春校本に依っているため、巻4の後半が欠落し、巻3の後半が重出する。 また、巻3末尾に大伴旅人、大伴家持、藤原不比人の伝が掲載されている。 内閣文庫、東京大学図書館、、石川武美記念図書館、、、、などに所蔵されている。 活字附訓本 [ ] 活字無訓本を文永十年本系の寂印成俊本(現存しない)で校合して訓をつけたもの。 木版で袋綴じ、全巻10冊である。 江戸時代初期の( - )か( - )ごろの刊行と考えられている。 なお、以下の奥書が付されている。 巻1に文永十年および三年の仙覚奥書• 巻20に文永三年の仙覚奥書、寂印と成俊の奥書 、石川武美記念図書館、、東洋文庫、宮内庁書陵部、東京大学図書館、図書館、図書館などに所蔵されている。 寛永本 [ ] 寛永版本とも呼ばれる。 江戸時代初期の(20年)の刊行で、安田十兵衛の刊記がある。 木版で袋綴じ、全巻20冊である。 活字附訓本の整版本だが、若干の増補改訂が行われている。 江戸時代から流布本として用いられ、明治時代から戦前まで各種テキストの底本とされていた。 国会図書館などが所蔵している。 宝永本 [ ] (6年)の刊行であるが、寛永本の刊記だけを出雲国寺和泉掾のものとした。 国会図書館などが所蔵している。 旁註本 [ ] 宝永本の本文にを施したものである。 木版で袋綴じ、全巻20冊である。 (元年)の刊行で、註はのが契沖、賀茂真淵説に自説を加えて行った。 出雲国寺和泉掾と同文治郎の刊記がある。 国会図書館などが所蔵している。 『古万葉集』 [ ] 木版で袋綴じ、全巻20冊である。 (3年)に和泉寺などによって刊行された。 のとが宝永本に改訂を加えて本文だけを出版したもので、今村の序と横田の跋がある。 内閣文庫などが所蔵している。 校異本 [ ] 『 校異本万葉集』の題を持つ。 木版で袋綴じ、全巻20冊である。 を上欄に記している。 (2年)の刊行で、出雲寺文治郎の刊記がある。 旁註本の註を削除して、元暦校本等の橋本経亮の校異に藤原(山田)以文が再校を加えたものが掲載されている。 国会図書館などが所蔵している。 万葉集の構成と内容 [ ] 全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めてひとつの歌集にしたと考えられている。 各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。 また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。 内容上から(ぞうか)・・の三大部類になっている。 雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。 公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。 相聞歌(そうもんか) - 「」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌(人を愛する歌)である。 挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。 死者を悼み、哀傷する歌(人の死を悼む歌)である。 表現様式からは、• 寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現• 正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現• 詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む• 譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現 などに分けられる。 巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。 この卷には、・・・四国の雑歌、・・・・・・・・・・・十二国の相聞往来歌、・・・・五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。 歌体は、・・の3種に区別されている。 短い句は五音節、長い句は七音節からなる。 短歌は、五七五七七の五句からなるもの。 長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後を特に五七七という形式で結ぶもの。 長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。 旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を2回繰り返した形である。 頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。 歌数 [ ] 歌の数は4,500首あまりからなるが、の異伝の本に基づく数え方が、歌数も種々様々の説がある。 例えば『』によれば総歌数は4,516首であるが、これには一首に2度番号を振るなど問題が多い。 それらを整理したによると総歌数は4,506首で、そのほかに「或本の歌」が57首、「一書の歌」が4首、「一本の歌」が3首、「或書の歌」が2首、「或は云はく」とある歌が3首、『』の歌が1首の計70首であるという。 時期区分 [ ] の歌 歌を作った時期により4期に分けられる。 第1期は、即位()から()までで、の行事や出来事に密着した歌が多い。 代表的な歌人としてはがよく知られている。 ほかに・・・・らの歌もある。 第2期は、()までで、代表は、(かきのもとのひとまろ)・(たけちのくろひと)・(ながのおきまろ)である。 ほかには・・・・などである。 第3期は、(5年)までで、個性的な歌が生み出された時期である。 代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ(やまのうえのおくら)、伝説の中に本来の姿を見出す、女性の哀感を歌にしたなどである。 第4期は、(3年)までで、代表歌人は・・・・・(さののおとがみのおとめ)・などである。 歌の作者層を見てみると、やからなどに波及していき、作者不明の歌は畿内のや庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。 さらに、地域的には、宮廷周辺からや、というふうに範囲が時代とともに拡大されていったと考えられる。 歌風と万葉仮名 [ ] 「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、以外の民衆の歌が載っているきわめて貴重な史料でもある。 派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。 はこの集を評してと言った。 全文がで書かれており、の体裁をなしている。 しかし、歌は、の語順で書かれている。 歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とをあわせたもの、を使っていないものなどがあり多種多様である。 編纂されたころにはまだは作られていなかったため、と呼ばれる独特の表記法を用いた。 つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。 その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、による日本人のための最初のであったと言えよう。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 万葉仮名で書かれた大伴家持の歌 (万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾 (訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467) 山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌 (万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武 (訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63) 万葉仮名は、の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。 そうして「」と「」が創造されたのである。 現在でも万葉仮名はいたるところで使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。 万葉集の影響 [ ] 『万葉集』と方言 [ ] 『万葉集』には「東風 越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻17・4017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量のが記録されている。 すなわち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。 東歌は地方の歌の意で、東国(今の・から、南部まで含まれる)に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。 多くの歌でが多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。 また、分量の豊富さも魅力である。 詠まれてから時が経ち過ぎている、知識がなかった昭和時代の文献が幅を利かせすぎているため、間違った解釈もあり、その後の日本語、歴史に影響している。 は東国から徴集されたの詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、もっとも著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。 これは7歳()に徴集されたの詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。 しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言史料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。 以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げる。 昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻14・3483番) (昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。 ) 比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家• 草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻20・4420番) (旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でおつけなさいよ、この針でもって。 ) 久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志 上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代のと相通じるものが少なくない。 中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。 また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、で話されるは「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形をとることで知られている。 日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのはなど少数である。 日本古来の物語の原型説 [ ] 万葉集は『』や『』などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、巻16「由縁ある雑歌」には竹取翁と天女が登場する長歌があり、内容は竹取翁の「別伝」的なもので異なる内容ではあるが、『竹取物語』(かぐや姫物語)の源流のひとつととらえられるものとして関連が指摘されている。 巻9の作の長歌に『浦島太郎』の原型とも解釈できる内容の「浦島伝説」が歌われている。 ただ、「浦島伝説」はの雄略記でも、捕らえた大亀が女に変り、妻にしてに行く内容のものがある。 万葉集の「」は、『』の「生田川伝説」や、謡曲『求塚』、の『』に翻案されている。 また、『』でも、に身投げする(との2人の男性に愛される女性)が登場している。 元号(令和) [ ] による改元で4月1日午前11時41分に・が記者会見を執り行って発表され、の践祚にともなって同年5月1日から施行される元号「 」の典拠となった。 「 巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の「初春の 令月にして、気淑く風 和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」から引用した。 これまで日本の元号の出典はであったが、初めて日本の古典からの出典となった。 ・は元号発表にともなって開いた記者会見にて、新元号について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。 梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる」という思いを込めたものであることを語った。 「令和」の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」は、2年()の正月13日に、の邸の梅園にや下僚ら約30人が集まり催された「」の宴席で詠まれた32首(また後日6首が唱和された)の序文である。 現代訳では、「…時は良き新春正月、外気は快く風は和らいで、梅は佳人の鏡台の白粉のように白く咲き、蘭は香袋のように香っている。 …」という意味である。 花を愛で、や、などの花びらを杯に浮べ飲むことは、長寿祈願の習わしであったが、万葉当時の花見は、桃や梅などの中国伝来の花を見るのが一般的であったという。 万葉集の諸点 [ ] 巻頭と巻末の歌 [ ] 『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌がの歌で始まり、の歌で締めくくられている。 の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。 大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた) 籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも(巻1・1番) 篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母 巻末 新 あらた しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重 し け吉事 よごと 捕鯨 [ ] 万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、おもにを指す。 そして「いさなとり」は、を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。 巻 二 「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 辺附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ• 巻 三 越の海の 角鹿の浜ゆ 大船の 真楫貫きおろし 「いさなとり」 海路に出でて• 巻 六 やすみしし わが大君の あり通ふ 難波の宮は 「いさなとり」 海片附きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 波の音(と)さわき 夕なぎに 櫂の声(おと)聞ゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干(しおひ)のむた 浦渚(す)には 千鳥妻呼び 芦辺には 鶴(たづ)が音(ね)響(とよ)む 視る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくり欲(ほ)りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れども飽かぬかも• 第 一六 「鯨魚取り」 海や死する 山や死する 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ 外国語との関係 [ ] にはが『万葉集の謎』においての祖語はであるとし、万葉集はレプチャ語で読めると主張していた。 また、には、『万葉集』の言葉はと関係がある、またはそれにより解釈できるという意見が出され、一連の著作がになったことがある。 しかし、当時から一部のの研究者の手によって反論と批判 がなされている。 背景としては、日本の古代文化を由来とする(、など)、さらに、それに同調する日本人(など)の言説が存在している。 また李寧煕は日本で育った在日韓国人であり、韓国在住の韓国人から事実認識の誤りが指摘されている。 こうした外国語との関係はも「万葉集の謎は英語でも解ける」と批判している。 研究史 [ ] 近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、、、、、、、、らが万葉集研究を展開した。 近現代にはやの観点から万葉研究が行われ、、(日本で最初に万葉集の全口語訳をした )、、(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、らにより万葉集について研究されている。 外国語への翻訳としてはによる英語訳がある。 仙覚 [ ] 仙覚は(3年)、の生まれで、7歳ごろに万葉集の研究を志したという。 40歳のころにはに住み、の知遇を得ていた。 (寛元元年)、頼経が歌人で源氏物語学者のに万葉集の校訂を下命した。 仙覚は(寛元3年)か(寛元4年)にこの校訂作業に加わり、親行が書写した写本を底本としてほかの6種類の写本と校合を行って、(寛元5年)2月に完成させた。 これが「仙覚寛元本萬葉集」ないし「寛元本」と呼ばれているものである。 ただし、後述の文永本とも仙覚の校訂本の原本は散佚している。 寛元本は「傍訓形式」をとっている。 すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり読み下し文を書き入れた。 同時に仙覚は万葉集の歌のすべてに訓を施し、(5年)に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏覧状」の二書をに献上している。 この縁で仙覚は、後嵯峨院とその子息の鎌倉将軍らの支援を受けることになり、さらに5種類の写本の閲覧が可能になった。 そこで、(元年)に今回は仙覚単独で万葉集の校訂作業を再開した。 この校訂で(文永2年)9月に完成したのが「仙覚文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に献上された。 また、翌年8月に新たな写本を完成させた、これが西本願寺本の祖本である「文永三年本」である。 その後も校訂を続け、文永十年本の系統の写本が残っている。 万葉集研究者は文永三年本とその後の校訂本をあわせて「文永本」と呼んでいる。 文永本の大きな特徴は傍訓の色分けである。 従来の訓は黒、仙覚が改めた訓は紺青、新たに施した訓は朱で記されている。 万葉集に由来する名前 [ ]• - 富山県高岡市と射水市を結ぶの路線、およびその運行事業者• 万葉まほろば線 - 奈良県内を走るの鉄道路線、の愛称• 万葉あかね線 - 滋賀県内を走るの鉄道路線、の愛称• - が運航するフェリー• - (JRA)がの芝3,000メートルで施行する国際競走• 万葉の岬 - 兵庫県相生市の岬、の別名 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• BS日テレ 2019年5月3日放送【深層NEWS】「令和」の出典 万葉集の楽しみ方• 212-220)• 「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。 」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社)• 2009年1月1日放送 NHK BS-Hi「万葉集への招待」• 伊藤博『図説 日本の古典2 萬葉集』堀内末男、1978年4月4日、28頁。 (京都大学名誉教授)• 特記以外は『日本古典文学大辞典』岩波書店、「万葉集」の項目。 執筆者は• 東京国立博物館. 2019年10月14日閲覧。 『皇室の名宝日本美の華』(展覧会図録)、東京国立博物館、2009、p. 183• - 文化遺産オンライン()• 小松靖彦「ことばの宇宙」『現代思想』2019年8月臨時増刊号• 『日本古典文学大辞典』岩波書店、「万葉集」の項目。 執筆者は• 「消えゆく物語をどう残すか」(, pp. 149-180)• 日本語 HTML プレスリリース , 内閣総理大臣官邸, 2019年4月1日 , 2019年4月1日閲覧。 安田徳太郎『日本人の歴史 第1 万葉集の謎』〈カッパ・ブックス〉、1955年。 『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』大和書房、1991年11月。 『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』大和書房〈古代文化叢書〉、1994年8月、新装版。 『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』JICC出版局、1990年2月。 『新・朝鮮語で万葉集は解読できない』JICC出版局、1991年9月。 などがある。 「はじめに」(, pp. 3-12)• 小松靖彦「ことばの宇宙」『現代思想』2019年8月臨時増刊号 参考文献 [ ]• 『万葉集から古代を読みとく』 〈ちくま新書1254〉、2017年5月。 編 『万葉集』 〈ビギナーズ・クラシックス〉、2001年11月。 「『万葉集』に詠まれた7・8世紀の服飾:服飾が暗示する意味と役割」 『文化女子大学紀要 服装学・造形学研究』 37号 、67-76頁、2006年1月。 関連項目 [ ]• - ドイツ語訳を進めたが中断• - 英訳と研究書を刊行• - 『万葉赤人歌の表現方法 批判力と発想力で拓く国文学』を刊行• - 万葉集の歌から由来するタイトル。 - 巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」の一部が歌詞になっている。 - が由来となっている会名。 - 万葉集を出典とする元号。 - や地方関連の30首。 文献情報 [ ]• 大久保正,「」『北海道大学文学部紀要』 9巻 p. 91-105, 1961. 20 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 日本語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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万葉集【巻第十】

万葉集 作者

第1巻 29番歌 巻 第1巻 歌番号 29番歌 作者 柿本人麻呂 題詞 過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌 原文 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮] 阿礼座師 神之 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 [或云 食来] 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而] 何方 御念食可 [或云 所念計米可] 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 [或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留] 百礒城之 大宮處 見者悲 [或云 見者左夫思毛] 訓読 玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ [或云 宮ゆ] 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを [或云 めしける] そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え [或云 そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて] いかさまに 思ほしめせか [或云 思ほしけめか] 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる [或云 霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる] ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも [或云 見れば寂しも] かな たまたすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ [みやゆ] あれましし かみのことごと つがのきの いやつぎつぎに あめのした しらしめししを [めしける] そらにみつ やまとをおきて あをによし ならやまをこえ [そらみつ やまとをおき あをによし ならやまこえて] いかさまに おもほしめせか [おもほしけめか] あまざかる ひなにはあれど いはばしる あふみのくにの ささなみの おほつのみやに あめのした しらしめしけむ すめろきの かみのみことの おほみやは ここときけども おほとのは ここといへども はるくさの しげくおひたる かすみたつ はるひのきれる [かすみたつ はるひかきれる なつくさか しげくなりぬる] ももしきの おほみやところ みればかなしも [みればさぶしも] 英語(ローマ字) TAMATASUKI UNEBINOYAMANO KASHIHARANO HIJIRINOMIYOYU [MIYAYU] AREMASHISHI KAMINOKOTOGOTO TSUGANOKINO IYATSUGITSUGINI AMENOSHITA SHIRASHIMESHISHIWO [MESHIKERU] SORANIMITSU YAMATOWOOKITE AWONIYOSHI NARAYAMAWOKOE [SORAMITSU YAMATOWOOKI AWONIYOSHI NARAYAMAKOETE] IKASAMANI OMOHOSHIMESEKA [OMOHOSHIKEMEKA] AMAZAKARU HINANIHAAREDO IHABASHIRU AFUMINOKUNINO SASANAMINO OHOTSUNOMIYANI AMENOSHITA SHIRASHIMESHIKEMU SUMEROKINO KAMINOMIKOTONO OHOMIYAHA KOKOTOKIKEDOMO OHOTONOHA KOKOTOIHEDOMO HARUKUSANO SHIGEKUOHITARU KASUMITATSU HARUHINOKIRERU [KASUMITATSU HARUHIKAKIRERU NATSUKUSAKA SHIGEKUNARINURU] MOMOSHIKINO OHOMIYATOKORO MIREBAKANASHIMO [MIREBASABUSHIMO] 訳 畝傍の山のある橿原(かしはら)で即位された神武天皇の御代から神としてお生まれになり、栂(つが)の木ではないが、次々と天下を治められたのに、その大和の地を置いて、奈良山を越えたのはいかに思われてのことでしょう。 遠く離れた田舎である近江の国は琵琶湖西南岸の大津の宮に天下をお治めになった。 その神の命(みこと)がいらっしゃった大宮(みやこ)はここにあったと聞いている。 大殿はここだと言われているが、そこには春草が生い茂っている。 霞がたなびく春の日が霧にけむっているのだろうか。 草茂るここが官人たちがいた大宮どころかと、見るのは悲しい。 都は壬申の乱で廃都になった「近江大津宮」を指し、場所は現在の滋賀県大津市にある近江大津宮錦織遺跡となる。 「近江大津宮」はの即位に合わせて作られた都。 しかし即位から5年後、天智天皇の崩御をきっかけに壬申の乱に突入。 後継者である息子の大友皇子は大敗をきっかけに自害。 こうして「近江大津宮」は廃都となる。 本歌からまでが「近江大津宮」の廃都の歌となり、通称「近江荒都歌(おうみこうとのうた)」とも言われている。 「畝傍の山の橿原のひじりの御代」は初代天皇の神武天皇のことを言っており、奈良県橿原市に神武天皇陵がある。 栂(つが)の木は、マツ科の常緑高木。 高さ30m以上に達する。 「そらにみつ」は。 全部で6例あり、すべて長歌。 通常「そらみつ」と使われるが、「そらにみつ」は本歌のみとなる。 「玉たすき」、「あをによし」、「石(いは)走る」、「ももしきの」はみな枕詞。 「楽浪(ささなみ)の」は「琵琶湖西南岸地方一帯」をいう。

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