古賀 政男 古関 裕 而。 古関裕而

古山裕一のモデルは古関裕而!作曲家の代表曲がすごい!

古賀 政男 古関 裕 而

音楽の戦争責任について 日本のマーチは課題曲ばかりではありません。 音楽の戦争責任について 平成6年卒 大元佳奈 4 丈余の櫓櫂 操りて 行手定めぬ 浪まくら 百尋千尋 海の底 遊びなれたる 庭広し 5 幾年ここに きたへたる 鉄より堅き 腕あり。 吹く塩風に 黒みたる はだは赤銅 さながらに。 6 浪にただよう 氷山も 来らば来れ 恐れんや。 海まき上ぐる たつまきも 起らば起れ 驚かじ。 7 いで大船を 乗出して 我は拾わん 海の富。 いで軍艦に 乗組みて 我は護らん 海の国。 これは「われは海の子」の歌詞である。 軍国主義を思わせるとのことでGHQの指示で教科書からはこの4番以降が消え、歌碑にも載っていない。 「汽車、汽車ポッポポッポ」でおなじみのも原曲は「兵隊さんの汽車」であり、出征兵士を万歳で送る歌だった。 他にも、なども、歌詞の改変などを経て今も歌われている。 これらの曲は問題のある歌詞が消え、曲が後世に残ったものである。 戦時にはたくさんの楽曲が国策や、時局に対する忖度で作られた。 今回の演奏会で古関裕而作品を演奏するにあたって、彼の作品を多く聴いたが、歌謡曲やスポーツ関連のヒット曲の影には戦時中の楽曲が多く存在し、古関裕而を語るにあたっては避けることはできない。 古関裕而はコロムビアの専属作曲家であった。 (戦時下もレコードは生産されていた。 ビクター、ポリドール、キングレコード、テイチクレコード、タイヘイレコードなどは戦前からあった会社である)当時、新聞社や放送局、陸軍省などの公募による楽曲がさかんに作られた。 レコード会社からの依頼があって、断ることもできず作曲したとも言い切れないが、望むと望まざるとに関わらず、古関裕而の歌は大ヒットし、戦場や銃後でひろく歌われていた。 「露営の歌」はS11年作曲、60万枚の大ヒット曲。 毎日新聞の公募によって選ばれた歌詞に曲を付けたもので、勇壮な曲ではなく、戦地における兵士の生と死への思いが哀愁を込めて歌われる。 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパきくたびに 瞼に浮かぶ旗の波 詞:藪内喜一郎 「愛国の花」 S13年作曲。 大阪中央放送局の国民歌謡として作られた。 S17年の同名映画はこの曲のヒットを受けて後に作られたもの。 銃後の女性を桜・梅・椿・菊の花になぞらえた、とても美しい楽曲である。 ましろき富士のけだかさを こころのつよい楯として 御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地に咲き匂う 国の花 詞:福田正夫 「暁に祈る」 S15年作曲。 松竹映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」の主題歌。 力強くドラマティックなメロディが印象的。 ああ あの顔で あの声で 手柄頼むと妻や子が ちぎれる程に振った旗 遠い雲間にまた浮かぶ 詞:野村俊夫 「英国東洋艦隊潰滅」 S16年作曲。 この曲はニュース歌謡と呼ばれるものであり、戦果のニュースを国民に知らせるために古関は放送局に常駐し、即座に作曲したものに、歌を付けてラジオで放送していた。 この曲はマレー海戦勝利の大本営発表後、3時間で放送までこぎつけたとされている。 S17年に歌詞を変え「断じて勝つぞ」としてレコード化。 元の詞ではS41年にレコード化されている。 滅びたり 滅びたり 敵東洋艦隊は マレー半島 クワンタン沖に いまぞ 沈みゆきぬ 勲し赫たり 海の荒鷲よ 沈むレパルス 沈むプリンス・オブ・ウェールズ 詞:高橋掬太郎 「断じて勝つぞ」 君の為 国の為 我が命捧げて 微笑みて 働くは 限り無き名誉 剣を執る身も はたまた執らぬも 断じて勝つぞ 断じて勝つぞ 詞:サトウハチロー 「若鷲の歌(予科練のうた)」 S18年作曲。 23万枚の売り上げ。 東宝映画「決戦の大空へ」の挿入歌。 明るい曲調で始まるが、どこかもの悲しくもある。 覚えやすいメロディで、今でも歌える人も多いだろう。 若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧 く 詞:西条八十 「ラバウル海軍航空隊」 S19年作曲。 NHKの放送用に作られた。 すでに戦局は悪化していたが、はるか南半球で健闘していた航空隊を題材にすることで、戦意昂揚につなげようとした。 曲調は明るく、スポーツショー行進曲にも似ている。 銀翼連ねて 南の前線 ゆるがぬ守りの 海鷲たちが 肉弾くだく 敵の主力 栄えあるわれら ラバウル航空隊 詞:佐伯孝夫 これらの作品は、現在ふつうには演奏されることはめったにない。 当時の流行歌であった戦時歌謡も企画もののCDなどでしか聴くことはない。 古関作品にはGHQによって廃棄された譜面もあるそうだ。 これらの楽曲で戦地に家族を送った人や、実際に戦場へ行った人にとってこれらの楽曲は耳にするのも嫌かもしれない。 また、街宣車が大音量で流すのを快く思う者は少ないだろう。 街宣車では鶴田浩二が歌うものが人気のようだが、戦時中のラジオやレコードは霧島昇、藤山一郎、伊藤久男、岡本敦郎ら正統派歌手が美しく歌い上げている。 言葉は音楽に乗り、より広く深く人々に浸透する。 音楽はプロパガンダに都合のいい手段であったことは間違いない。 戦時下の音楽はその依頼主を見ても、国民を軍国主義に染めていく恐ろしい力を持っていたと言えるだろう。 そうなれば、戦後において演奏されなくなったのも仕方のないことであろうか。 世界に目を向けると、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は「ライン軍のための軍歌」である。 「リパブリック讃歌」はアメリカの愛国歌で、南北戦争の北軍の行軍曲である。 フランス軍もアメリカ軍ももちろん現存するので、これらの曲が演奏されるのは当然かもしれない。 日本軍はもう無いが、自衛隊音楽隊では「陸軍分列行進曲」や行進曲「軍艦」、「君が代行進曲」などは演奏会の定番の曲目である(いずれも古関作品ではない)。 しかし、これらの曲の歌詞が歌われることは少ないだろう。 「抜刀隊」(陸軍分列行進曲) 我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ 敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で 之に從ふ兵は 共に慓悍决死の士 鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を 起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ 敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし 詞:外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎 「軍艦」 守るも攻むるも鋼鐵の 浮べる城ぞたのみなる 浮べるその城日の本の 皇國の四方を守るべし まがねのその艦日の本に 仇なす國を攻めよかし 詞:鳥山啓 私は戦争を知らない世代である。 今回「古関裕而全集」を聴いてみて、とくに「愛国の花」の美しさに感動し、なぜこの曲がいま聴かれないのかを考察したものである。 偏見がなければ、演奏されないのがもったいない曲ばかりである。 「嗚呼神風特別攻撃隊」は荘厳で格調高い名曲であるが、ラジオで流れたのはS19年。 S20年に「神風特別攻撃隊の歌」としてレコード化された。 しかし空襲で音源や原譜は失われ、ようやく正式にレコードが発売されたのはS44年になってからだった。 今回参考資料とした「歌と戦争」(櫻本富雄著)は、服部良一、古関裕而、古賀政男、山田耕筰についてかなり厳しくその責任について書いている。 サトウハチローをはじめとする作詞家も同様だ。 筆者はS8年生まれなので、戦時中はすでに少国民と呼ばれる年代であったろうから、戦時歌謡に対する思いは私とまったく異なるだろう。 しかし先に挙げた唱歌のように、楽曲だけでも残すことはできないかと考えるのは間違っているのだろうか。 R2年春放送予定のNHKの放送用の朝ドラ「エール」は古関裕而をモデルにしたドラマである。 大河ではないので、役名も古山裕一になっているし、ストーリーも史実どおりではないだろう。 戦時下の作曲活動についてどのように描かれるのか気になるところだ。 R2年は古関裕而イヤーになるだろう。 「東京オリンピックマーチ」の栄光と、戦時中の作曲活動の影。 どちらも偉大な作曲家古関裕而の功績なのであり、近代日本の軌跡なのである。 参考資料 「歌と戦争-みんなが軍歌をうたっていた-」 櫻本富雄 アテネ書房 CD「古関裕而全集」別冊解説書 日本コロムビア株式会社.

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古関裕而さん

古賀 政男 古関 裕 而

概要 [ ] に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期にはに師事。 に主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品としてノミネート。 これを日本の新聞で「 チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出。 クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの・や、の作曲を手掛け、の「」、「」、の「」、・の「」などを発表した。 戦後は、「」や、の「」、の「」、伊藤久男の「」、の「」、の「」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。 他方で、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「あゝ中央の若き日に」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、 和製と呼ばれた。 巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関はスポーツにはあまり興味はなく球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。 また母校である福島商業高等学校の校歌を作曲している。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現)へ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販のなどを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 青少年期 [ ] (大正11年)、旧制福島商業学校(現)に入学した。 同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 妹尾楽譜や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。 学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現川俣支店)に勤務した。 町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ [ ] (昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。 これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、(昭和5年)1月23日ので大々的に報道されている。 ただし、これは主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。 日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのはの「やまとの声 」である。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で在住 の(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品には、を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)、古関が26歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへ進んでいた。 金子は後に声楽家の(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた。 また同時期に古関は同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 戦中から戦後 [ ] 1955年 戦時中の古関は数々の名作を発表した。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」「」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」「」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるの唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱するなどの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。 晩年と死後 [ ] 系の音楽番組『』の審査員を、10月の放送開始から初代司会者のとともにに降板するまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ 、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 古関の没後、の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 家族 [ ]• 妻・金子との間に2女1男• 娘2人は戦前の生まれ。 終戦間際に娘2人を福島県に疎開させ、裕而も一時同居している。 長男・は戦後生まれ。 アマチュア時代ののキーボード担当だったが脱退。 会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当。 父母を回想する新聞雑誌や音楽番組にも協力している。 主な作品 [ ] 戦前 - 戦中期 [ ]• 1931年「 ~応援歌~」(作詞:住治男)• 1931年「福島行進曲」(作詞:、歌:)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1934年「利根の舟唄」(作詞:、歌:)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)• 1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1937年「釜石市民歌」(作詞:広瀬喜志、歌:)• 1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1940年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 戦後 [ ]• 1946年「」(作詞:藤浦洸)• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1949年「を讃える野球の歌」(作詞:青木薫、補作:サトウハチロー)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1951年「白いランプの灯る道」(作詞:丘灯至夫、歌:)• 1951年「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「郡山市民の歌」福島県郡山市(作詞:内海久二)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1958年「」(作詞:コスティス・パラマス、作曲:スピロ・サマラス。 第1回時の紛失ピアノ楽譜を発見、採譜・オーケストラ編曲。 古関のオーケストラ譜は現在に至るまで用いられる)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1959年「城南信用金庫の歌」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 1979年「若さと英知~社歌」(原案:社内公募、作詞:丘灯至夫、歌:)• 1985年「社歌」(作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 - 佐久間正門 現行版 - 松瀬節夫) 映画音楽 [ ] 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 - 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年 - 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・特技監督)• 1962年「」(監督) クラシック音楽 [ ]• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他 [ ]• 1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1956年「豊橋市歌」(作詞:辰己利郎、補作詞:丸山薫)• 1961年 「」• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1970年 テーマソング「わらじ音頭」(作詞:茂木宏哉、補作詞:丘灯至夫、歌:)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 制定歌「の歌」(作詞:春日紅路、補作詞:西條八十)• 主題歌「みどりの歌」(作詞:中村利春)• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 応援歌「紫紺の旗の下に」(作詞:明治大学応援団)• 水上応援歌「水の覇者日大」(作詞:サトウハチロー)• 日大松戸歯学部学生歌(作詞:)• 学歌(作詞:)• 横浜市立大学校歌(作詞:西條八十)• 社歌(作詞:)• 城南信用金庫の歌(作詞:西條八十)1959年• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 関西電力社歌「呼ぼうよ 雲を」• (ホームソング)• 社歌(作詞:藤浦洸、歌:伊藤久男、安西愛子、コロムビア合唱団)• 松下電器行進曲「月日とともに」(作詞:山田博夫)1951年• 社歌「清くけだかき白鳥の」(作詞:)1961年• 歌(作詞:)• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 山形県北村山郡大石田町町民歌(斎藤茂吉歌集「白き山」より)• 校歌(作詞:白鳥省吾)1950年• 校歌(作詞:柳澤健)• 校歌(作詞:多田利男)• 福島県立平工業高等学校校歌(作詞:土井晩翠)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 校歌(作詞:西條八十)• 日光市立日光中学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 東京都大田区立徳持小学校校歌(作詞:野村俊夫)1955年• 東京都板橋区立成増小学校校歌(作詞:和田隆夫)• 校歌(作詞:)• 東京都立工業高等専門学校校歌(作詞:野村俊夫)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:西條八十)• 静岡市立安東中学校校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:船橋久男)• 愛知県西尾市立吉良中学校校歌• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:内藤敏夫)• 京都市立紫竹小学校校歌(作詞:)• 京都市立加茂川中学校校歌(作詞:吉井勇)• 宮津市立宮津中学校校歌(作詞:能勢佐十郎)• 校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:中河与一)• 北九州市立熊西小学校校歌(作詞:)• 大牟田高等学校・中学校校歌 作詞:頓田元穂• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 応援歌(作詞:)• 福岡県立八幡工業高等学校校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 長崎県立小浜高等学校校歌 作詞:宮崎康平• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:西條八十)• 受賞 [ ]• (1952年度)• (1969年)• 福島市名誉市民(1979年)• (1979年)• 特別賞(1979年)• (1987年) 著書 [ ]• 古関正裕『君はるか 古関裕而と金子の恋』、、2020年2月• 結婚前の文通録を書籍化。 ビジュアル本 [ ]• 古関正裕『古関裕而の生涯 傑作メロディーCD付き』、、2020年4月 評伝等 [ ]• 齋藤秀隆『歴春ふくしま文庫67 古関裕而 うた物語』歴史春秋出版 2019年6月 978-4897575940• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年• 『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』 、2019年11月• 『古関裕而 応援歌の神様 激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 2020年2月• 『古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月• 『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 2020年3月• 『古関裕而・金子 その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月 参考文献 [ ]• 武満徹 02 古関裕而• 古関裕而全集 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 度重なる古関の「放言癖」 楽器を使わずペンから音楽があふれる等々)から、元からそのような作品群は存在していなかったという説もある。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 1943年発表の同曲を西郷輝彦がカバーしたもの。 出典 [ ]• withnews. Withnews. 2020年6月7日閲覧。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。 川俣町. 2020年4月22日閲覧。 twitter. com. twitter. 2020年6月7日閲覧。 www. jscm. net. JSCM. 2020年6月7日閲覧。 当時はまだ。 豊橋への編入は(昭和7年)以降。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 刑部芳則『古関裕而』p140• - 福島市古関裕而記念館、2020年5月28日閲覧。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 www. city. fukushima. fukushima. 福島市. 2020年6月14日閲覧。 NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日. 2019年2月28日閲覧。 福島民友. 2020年6月2日閲覧。 産経新聞 2014年2月5日. 2020年6月2日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 2020年5月1日閲覧。 cms. edu. city. kyoto. 2020年4月13日閲覧。 topics. smt. docomo. NTT DOCOMO. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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音楽の戦争責任について

古賀 政男 古関 裕 而

NHK連続テレビ小説「エール」に登場が予想される音楽、歌をまとめます。 多くは主人公・古山裕一のモデル人物である作曲家・古関裕而が作曲したものです。 この記事は、ドラマの進捗にあわせて随時追記していく予定です。 「エール」主題歌、劇中歌 主題歌「星影のエール」(GReeeeN) ドラマのお膝元・福島で結成された男性4人組ボーカルグループ「GReeeeN」による主題歌。 劇中歌、劇伴「自分へのエール」 作曲・瀬川英史、指揮・広上淳一、演奏・NHK交響楽団による「エール」の劇伴、テーマ曲。 ドラマの要所要所で繰り返し流れる音楽。 第3話の運動会・徒競走のシーンで、藤堂先生の指揮によるハーモニカ演奏で裕一を励ました曲でもある。 長崎の鐘(1949年・古関裕而作曲) 第1回(3月30日放送)で言及。 東京五輪開会式に尻込みする古山裕一に対し、長崎出身の警備員(萩原聖人)が裕一の曲「長崎の鐘」を称賛。 裕一の背中を後押しする。 作詞はサトウハチロー、歌は藤山一郎。 「エール」の物語後半でも、古山裕一が敗戦国日本を思い「長崎の鐘」を作曲する場面が描かれるかも。 威風堂々(エルガー作曲) 第2回(3月31日放送)に登場。 自宅の蓄音機で聞くために父が買ってきた舶来品のレコード「威風堂々」(第1番 ニ長調)を聞いた裕一。 そのメロディに裕一はまたたく間に吸い寄せられ、夢中で音楽に聞き入る。 天国と地獄 序曲/地獄のオルフェ(ジャック・オッフェンバック作曲) 第3回(4月1日放送)に登場。 魚治の村野善治から早く走る方法を伝授された三郎が、裕一と一緒に家でかけっこの練習をする時に流れていた曲。 運動会の定番ソング。 かなりや(成田為三作曲) 第4回(4月2日放送)に登場。 5年生になり藤堂先生が担任となった裕一は、授業で童謡「かなりや」を歌う。 「歌を忘れたかなりやは〜」の歌詞でおなじみ。 作詞は西條八十、作曲は成田為三。 弦楽セレナーデ (チャイコフスキー作曲) 第4回(4月2日放送)に登場。 父・三郎が新しく買ってきたレコードのひとつ。 嬉しそうに聞く裕一。 讃美歌312番「いつくしみ深き」(賛美歌) 第4回(4月2日放送)に登場。 母に連れられて川俣町にやったきた裕一は、教会で少女(音)が歌う美しい賛美歌「いつくしみ深き」を聞く。 作詞はアイルランド人・ジョセフ・スクライヴェン (1819-1886)。 藤堂先生から北原白秋の詩にメロディをつける課題を出された裕一が、教室の黒板に一気に書き上げた曲。 裕一が初めて音楽の才能を見いだされた、オリジナル曲(?)。 乃木大将・村野鉄男の詩に裕一が詩をつけて完成した、二人の初めてのコラボ曲。 曲の完成を待たずに、村の一家は夜逃げをしてしまう。 古山裕一のオリジナル曲と思われる。 O mio Babbino Caro — 私のお父さん(ジャコモ・プッチーニ作曲) 第7回(4月7日放送)に登場。 11歳の関内音が、豊橋の教会に来ていた世界的オペラ歌手・双浦環(柴咲コウ)が歌う「O mio Babbino Caro」に心を奪われる場面が描かれる。 詳しくは… ・ 組曲・くるみ割り人形(チャイコフスキー作曲) 第8回(4月8日放送)で登場。 梅のリクエストにより、安隆・光子夫妻が子供たちの前で踊ったダンス曲。 三姉妹が楽しそうに「くるみ割り人形」を歌った。 おぼろ月夜(童謡) 第10回(4月10日放送)で登場。 小学校の学芸会の出し物「竹取物語」で、主役・かぐや姫に扮した音が歌った曲。 亡き父・安隆を想い、涙をこらえて歌った。 カルメン幻想曲(サラサーテ作曲) 第11回(4月13日放送)で登場。 裕一がハーモニカ倶楽部の練習でみんなと一緒に吹く曲。 ハーモニカ倶楽部で演奏していたのは、曲の冒頭部分。 裕一が公演会に向け、ハーモニカ倶楽部のみんなと練習で吹いた曲。 定期演奏会でも披露された。 裕一たちが吹いたのは「カルメン」第1幕への前奏曲。 皇帝円舞曲(ヨハン・シュトラウス2世作曲) 第13回(4月15日放送)登場。 裕一が所属する「福島ハーモニカ倶楽部」が、定期演奏会で最初に披露した曲。 これに続いて「カルメン 前奏曲」も披露。 「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」と並び、シュトラウス2世の「三大ワルツ」の一つとされる。 「福島ハーモニカ倶楽部」の定期演奏会で披露された、裕一のオリジナル曲。 ハーモニカ倶楽部会長・舘林とのコンペを勝ち抜いて採用された裕一の苦心の一曲。 裕一は舘林から指揮者に指名される。 失恋に落ち込み続ける裕一を元気づけようと、松坂寛太がハーモニカで吹いた曲。 この曲を聞いた後、裕一は一年ぶりに笑顔を見せた。 白人、黒人音楽が融合した、いかにも「アメリカらしい」曲として有名。 関内音が、御手洗先生の指導で歌っていた曲。 二階堂ふみにとって「エール」での初の歌唱シーン。 ・ 竹取物語(1929年・古関裕而作曲) 第4週で登場か。 英国の国際コンクールに応募するため、銀行に勤めていた裕一が初めて書き上げた交響曲。 この曲で上位入賞の快挙を成し遂げたことをキッカケに、裕一は最愛の人・関内音と出会う。 この曲で日本人初の国際的作曲コンクール入賞を果たした古関裕而の快挙は新聞記事となり、遠く豊橋にいた声楽家志望の女性・内山金子の心を動かすことに。 御手洗先生とのレッスンで音が歌っていた歌。 裕一から手紙の返事が来ず落ち込む音の不甲斐ない歌い方に、たまらず御手洗がストップを掛ける。 原語はフランス語だが、イタリア語の歌詞で歌われる場合も多い。 君はるか(1930年・古関裕而作曲) 第19回(4月23日放送)で登場。 音と文通をはじめた裕一が、音のために作曲した曲。 元の詩「君はるか」は妹・梅が選んだもので、「君を思えばはるかなり 浪のかなたをはるかなり」という内容。 しかし、ドラマにも登場した「君を思えばはるかなり 浪のかなたをはるかなり〜」(詩のタイトル:君はるか)は、童謡「てるてる坊主」の作詞などで知られる浅原鏡村による短い詩。 内山金子がこの詩を文通相手の古関裕而に送り、すぐさま古関裕而が曲をつけて金子に送ったというドラマ同様のエピソードが残るそうです。 ありがとうございます。 で登場。 豊橋・関内家でグォーグォーと眠る父・三郎の姿を見て閃いた、裕一のオリジナル曲。 楽譜を見たミュージック・ティーチャー御手洗がピアノで弾くと、「最高!公演会のプログラムに入れましょう」と絶賛。 公演会の最後から二曲目の演目に。 裕一の豊橋での公演会の最後に披露した曲。 作曲を裕一が、作詞を梅が行い、音が歌った。 亡くなった安隆に捧げる歌で、小説家を目指す梅にとっては、自分の作品が初めて世に披露されたという記念すべき一曲。 その後、安隆に聞かせるために音が豊橋の海で歌った。 ・ アイーダ 凱旋行進曲(ジュゼッペ・ヴェルディ作曲) 第26回(5月4日放送)のオープニングシーンで登場。 音との結婚の約束をし、意気揚々と福島へ帰ってきた裕一。 街の人が裕一の賞金額を噂する横で颯爽と歩く裕一のBGMとしてかかっていた曲。 日本代表などサッカーの応援歌としても知られ、アイーダトランペット(ファンファーレ・トランペット)と呼ばれるトランペットの音色が印象的。 歌の翼に(メンデルスゾーン) 第27回(5月5日放送)に登場。 裕一からの手紙が来ずに落ち込む音が、水辺の公園で練習した歌。 恋の悩みもありいい声がでない音に対し、ベンチに腰掛けていた「謎の男」(山崎育三郎)が背筋を伸ばして歌うことを指導。 みるみる声が出るようになる。 ペール・ギュント/朝(エドヴァルド・グリーグ作曲) 第29回(5月7日放送)の冒頭シーンに流れた。 鈴木廉平(松尾諭)の結婚報告で盛り上がる川俣銀行メンバーたちの会話シーンのBGMとして登場。 第4幕「朝(朝の気分=Morning Mood)」はその中の一曲で、清々しい朝の空気を表現した定番のメロディとして広く知られる。 コロンブスレコードの専属作曲家となった裕一が、廿日市誉から作曲を依頼される詞。 「わたしちょいちょい〜愛してるったら愛してる」という歌詞。 ドラマオリジナルの詞か(未確認)。 ・ 歌劇「ドン・ジョバンニ」お手をどうぞ(モーツァルト作曲) 第32回(5月12日放送)に登場。 東京帝国音楽学校の新入生の授業に乱入したプリンス・佐藤久志が、夏目千鶴子を指名して一緒に歌った曲。 音たちの度肝を抜く素晴らしい歌声。 これから結婚しようとしている村の娘・ツェルリーナを、放蕩貴族・ドン・ジョヴァンニが自分の屋敷に誘うシーンで歌われる。 ・ 影を慕いて(古賀政男作曲) 第33回(5月13日放送)に登場。 コロンブスレコードで初めてレコード化された木枯正人の曲。 当初はA面の予定だったが、「なんか地味だし」という廿日市の意見によりB面となってしまい木枯は不満を募らせる。 その後、行きつけのカフェーパピヨンでママから歌を催促された木枯は、ギター片手に「影を慕いて」を歌っている。 第50回(5月22日放送)では木枯の他曲のヒットを受けてA面での再発売が決定。 流行歌手・佐藤千夜子によって歌われた(古賀政男作曲「日本橋から」のB面曲)。 その後、ビクターのライバル会社・日本コロンビアに曲が見いだされ、改めて藤山一郎の歌により再リリースされている。 ・ オペラ「椿姫」乾杯の歌ほか(ジュゼッペ・ヴェルディ作曲) 第35回(5月15日放送)などに登場。 東京帝国音楽学校に入学した音は、オペラの記念公演「椿姫」の主役を目指し、ライバル・夏目千鶴子と競い合うことになる。 選考会では「椿姫」の乾杯の歌が歌われ、千鶴子の美声が響いた。 ・ Vaga luna, che inargenti / 優雅な月よ(ベッリーニ作曲) 第36回(5月18日放送)に登場。 音楽学校でピアノを弾きながら、久志が麗しく歌った曲。 女子生徒たちがその歌声に歓声をあげていると、早稲田大学応援部の団員たちがズカズカと乱入。 女子生徒たちの声がたちまち悲鳴に変わった。 イタリア南部・島育ちのベッリーニらしい(?)、甘く優しいメロディに酔いしれます。 表題は、日本では「優雅な月よ」などと訳されます。 ありがとうございます。 紺碧の空(1931年・古関裕而作曲) 第8週で登場。 慶應義塾大学に対抗するため、早稲田大学応援部団長の田中隆が裕一に対し作曲を依頼したことで生まれる「紺碧の空」(早稲田大学応援歌)。 日本コロムビアの専属歌手となり上京したもののくすぶっていた古関裕而が、伊藤久男の従兄弟で早稲田応援団の幹部の一人・伊藤茂の依頼により「紺碧の空」を書き上げた。 作詞は全早大生から募集し、高等部在籍の住治男の作品が選ばれた。 ・ ベルガマスク組曲「月の光」(ドビュッシー作曲) 第41回(5月25日放送)に登場。 音楽学校の特別講師となった双浦環が、学校のピアノで弾いていた曲。 美しい音色に生徒たちもうっとり。 ドビュッシーの数ある作品の中でも最も有名な曲のひとつ。 1890年ごろの作曲とされる。 福島行進曲(1931年・古関裕而作曲、野村俊夫作詞) 第9週で登場。 恋に悩む盟友・村野鉄男が書き上げた歌詞を見て、裕一が一晩で作曲。 プロデューサーの廿日市に認められレコード化が決定し、裕一はようやくプロの作曲家としてデビューする。 古関のすすめで福島民友新聞社を退社し上京していた野村俊夫が作詞を担当。 二人が初めてタッグを組んだ曲だった。 歌は天野喜久代。 アルバムはほかに「福島夜曲」「船頭可愛や」「紺碧の空」「大阪タイガースの歌」なども収録。 歌劇「椿姫」乾杯の歌ほか(ヴェルディ作曲) 第10週前後に登場。 音楽学校で演じる舞台「椿姫」の主役に抜擢された音が歌う曲として登場。 酒は涙か溜息か(1931年・古賀政男作曲、藤山一郎歌) 第10週で登場か。 コロンブスレコードの同期・木枯正人のヒット曲。 作詞は高梨一太郎。 作曲・古賀政男、作詞・高橋掬太郎、歌・藤山一郎)は、80万枚の売上を記録した昭和歌謡のヒット曲。 日本で最初にクルーナー唱法を取り入れた作品としても知られる。 古賀、高橋、藤山にとって出世作となる。 交響曲第5番/運命(ベートーベン) 第47回(6月2日)に登場。 「船頭可愛や」が採用されるものの、これがヒットしなければ契約解除だと宣告された裕一。 会社のサロンにあるベートーヴェンの胸像を前に「運命、運命!」と祈ると、BGMとしてじゃじゃじゃーんと「運命」が流れた。 1808年12月にオーストリア・ウィーンの「アン・デア・ウィーン」劇場で「交響曲第6番」として初演されている。 船頭可愛や(1935年・古関裕而作曲、音丸、三浦環歌) 第10週で登場。 「酒は涙か溜息か」を作詞した高梨一太郎からのオファーにより、裕一が作曲した「船頭可愛や」。 当初はヒットしなかったが(歌手・藤丸=井上希美が歌う)、世界的オペラ歌手の双浦環が歌うことが決まり、大ヒット作となる。 第64回(6月25日)の放送では、コロンブスレコードの最終オーディションで御手洗清太郎が歌っている。 後に世界的オペラ歌手・三浦環もレコードに吹き込んだ名曲。 木枯を演じる野田洋次郎の美声が響くと、酔っ払っている藤丸も「名曲ねえ」と称賛。 ドラマ劇中、木枯正人のオリジナル曲と考えられます。 恩師・藤堂清晴先生からの依頼で作曲した、福島の小学校の校歌。 娘の誕生に浮かれる裕一が、音と一緒に作曲した。 この曲の完成披露会をキッカケにして、裕一は久しぶりの里帰りをすることになる。 古関裕而が恩師・遠藤喜美治の母校である福島・要田小学校の校歌を作曲したエピソードがモチーフと考えられます。 ・ 蝶々夫人/ある晴れた日に(ジャコモ・プッチーニ作曲) 第59回(6月18日)に登場。 双浦環の若きパリの日々を描くスピンオフ回の冒頭BGMなどとして用いられている。 環は友人の里子から日本を舞台にしたオペラ作品「蝶々夫人」のことを聞き、チャンスを掴むことになる。 双浦環のモデル・三浦環はプッチーニの「蝶々夫人」を十八番とする国際的なオペラ歌手として知られた。 「蝶々夫人」は、日本の長崎を舞台に没落藩士の令嬢・「蝶々さん」とアメリカ海軍士官との恋の悲劇を描いた作品。 日本民謡やアメリカ国歌なども取り入れられた名作。 トスカ/歌に生き、愛に生き(ジャコモ・プッチーニ作曲) 第59回(6月18日)に登場。 友人・里子からプッチーニ「蝶々夫人」の存在を聞いた環は、自宅でプッチーニのオペラ作品「トスカ」のアリア「歌に生き、愛に生き」のレコードをかける。 「トスカ」は、脱獄した政治犯を助けたために死刑を宣告された画家・カヴァラドッシと、彼を助けようとする恋人の有名歌手・トスカとの悲しい恋の物語。 大阪タイガースの歌=六甲颪(古関裕而作曲) 第61回(6月22日)に登場。 コロンブスレコードに所属して5年になる裕一が、打倒巨人軍に燃えるプロ野球球団「大阪タイガース」のために作曲した球団歌。 完成したレコードが掛田寅男(掛布雅之)らタイガース関係者に手渡されると、関係者らは楽しそうに「六甲おろし」を歌った。 現在も「六甲おろし」「阪神タイガースの歌」としてファンに愛される不朽の名曲。 リゴレット/女心の歌(ヴェルディ作曲) 第61回(6月22日)に登場。 音楽学校を卒業後にくすぶっている久志が、裕一、鉄男とともに流しの歌手として居酒屋に乱入し、得意げに歌ってしまったオペラ。 場違いな選曲に対し、客からは「うるせー!ひっこんでろ」と罵倒されてしまう。 マントヴァ公爵(テノール)によって歌われる。 輝く春(古関裕而作曲) 第61回(6月22日)に詞が登場。 コロンブスレコードがオーディションを行う新人歌手のデビュー曲として、裕一が作曲を依頼される曲。 裕一はオーディションに参加する久志が歌うことを期待し、熱を入れて作曲を行う。 作詞は久保田宵二が担当し、流行歌手の松平晃が歌った。 故郷(岡野貞一作曲) 第62回(6月23日)に登場。 離れて暮らす実母を懐かしむ少年時代の久志が、藤堂先生と一緒に歌った曲。 久志は生まれて始めて大きな声で歌を歌ったことで心のモヤモヤが晴れ、この経験が歌手を志すキッカケとなった。 1914年(大正3年)に尋常小学唱歌として発表されている。 「兎追いし彼の山」の歌詞でおなじみ。 ミス仙台(1931年・古関裕而作曲) 第63回(6月24日)に登場。 コロンブスレコード・新人歌手募集の一次審査に合格した久志が歌う曲目をみんなで屋台で考えている時に、藤丸が歌った曲。 「ミス仙台(仙臺)」に関しては、第61回(6月22日)放送の冒頭で完成したレコードを仙台三人娘にわたすシーンも描かれている。 「森の都の花乙女」という歌詞により「杜の都仙台」のイメージを広めたことで知られる。 戦後はコロムビア・ローズ、島倉千代子らが歌い、現在も仙台七夕の定番BGMとして親しまれている。 古関裕而は同時期に「ミス秋田」(歌:二葉あき子)、「ミス東北」(歌:音丸)といった曲も作っている。 ・ 東京ラプソディ(1931年・古賀政男作曲、藤山一郎歌) 第64回(6月25日)に登場。 コロンブスレコード・新人歌手募集の最終オーディションで、帝都ラジオ会長の御曹司・寅田熊次郎(坪根悠仁)が歌った曲。 藤山一郎の歌唱により、1936年(昭和11年)にリリースされた。 鉄道唱歌(明治時代・多梅稚、上真行ほか作曲) 第64回(6月25日)に登場。 コロンブスレコード・新人歌手募集の最終オーディションで、駅員の岡島敦(徳永ゆうき)が歌った曲。 演歌歌手で鉄道マニアである徳永ゆうきが、得意の駅員モノマネも披露。 東海道篇(全66番)をはじめ、山陽・九州編、山陽・九州篇、奥州・磐城篇、北陸篇、関西・参宮・南海篇、北海道篇と、全国各地の鉄道を歌ったものがある。 徳永ゆうきが歌ったのは「汽笛一声新橋を」でおなじみの第1集東海道編・第1番の歌詞。 東京行進曲(1929年・中山晋平作曲) 第64回(6月25日)に登場。 コロンブスレコード・新人歌手募集の最終オーディションで、七十三歳になるというダンディな男性・林喜一(宮路オサム)が歌った曲。 映画「東京行進曲」の主題歌であり、日本の映画主題歌(映画とのタイアップ曲)の第1号とされる。 ソーラン節(作曲者不明) 第64回(6月25日)に登場。 コロンブスレコード・新人歌手募集の最終オーディションで、民謡歌いの青年・水川ながし(彩青)が歌った曲。 「にしん来たかと かもめに問えば」の歌詞でおなじみ。 丘を越えて(1931年・古賀政男作曲、藤山一郎歌) 第64回(6月25日)に登場。 コロンブスレコード・新人歌手募集の最終オーディションでで佐藤久志(山崎育三郎)が歌った。 劇中では木枯正人の作曲という扱い。 新興キネマ制作の映画『姉』の主題歌。 もともとは古賀政男が「ピクニック」というタイトルで明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲したもの。 現在も多くの歌手によって歌い継がれる名曲。 ・ 露營の歌(1937年・古関裕而作曲) 「エール」の音楽を担当する作曲家・瀬川英史が「露營の歌」のスタジオ収録を行っている様子が番宣番組で確認されている。 「勝って来るぞと 勇ましく」の歌詞で有名な「露營の歌」。

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