ヒラヤマ タカシ。 ヒラ(実況者)の顔バレの経緯は?年収や本名、年齢や出身とは?

平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実|ヒラヤマ タカシ|note

ヒラヤマ タカシ

まず、本論に入るために、改めて 倫理規範に関する私の認識を述べておく。 下記は別にオリジナルでもなんでもないし、あえて言語化するかは別として、常識的な話なのでは?とは思うものの、ここを争うのが目的ではないので、あくまで私の勝手な認識として述べる。 ミームとしての倫理規範 規範は、 自らに対してのみ課すことができる。 「自ら」というのは共同体ならば共同体の構成員だ。 他者を攻撃し、強制することは可能だが、その強制力もまた 外側の大きな共同体で共有されている別の規範が源泉に過ぎない。 ゆえに、共同体に 新しい規範が追加されるのはそれが共同体にとって何らかの意味で 「得」であると、共同体の構成員たちが信じたとき、以外にはありえない。 たとえば経済規範なら全体の利得が上昇し、それを分配する必要があるだろう。 強制力は、規範による「損」のとの 差し引きで得に見える範囲でしか機能しない。 長期的には、この規範を獲得・排除することが群淘汰などのレベルで致命的、絶滅的な結果を生む可能性は常にある。 短期的には、共同体の構成員たちが得だと信じるかどうか、 ミームとしての感染力だけが規範にとっては重要だ。 両者は一致せず、ランダムネスは非常に大きいため、進化のダイナミクスは常に予測不可能なほど複雑だ。 だが、 明らかに、それを導入したら共同体全体の自己否定になる 、自殺的規範は受け入れられるわけがない。 外側の共同体の超強力な規範でそれを強制して、共同体を解散させるのはギリギリで可能だが。 というか、順序が逆で、局所的には損にみえる行動基準が、ミーム進化の意味で 大域的に得であるという物語があり、強制力や利益分配を持って個人の行動を誘導可能なとき、それを 倫理規範という。 それ以外のものは、 倫理規範の名を騙った、言わば ミーム攻撃としてふるまう。 そうすると、学習能力が免疫として働き、人や共同体はその 倫理規範自体を拒否し始める。 問題は、 完全情報がありえず、種々の論理学的決定不能性もある以上、特定の規範が倫理規範なのかミーム攻撃なのかは「論理」では絶対に決まらず、それを争うことは常に強力なコンフリクトが発生する。 それははたして解消不能なのか否か?といういつもの話だ。 -------------------------------------------------------------------------- 上記の観点から、 「リアリティーショー批判」「Vtuberはリアリティーショーか?」という問題が 疑似問題であることをまず見て、また 「VtuberはOOである、ゆえに……」 という形式で倫理規範を課そうとする発話が、なぜ絶対にコンフリクトしか産まないのかを説明する。 そして、そもそもの「コンフリクト」は何か、解決可能かを検討する。 「リアリティーショー批判」に関する自己批判 私は、以下のnoteで過激リアリティーショー問題に起因した、「脊髄反射的な誹謗中傷規制論」への批判を行った。 このときは、私が個人的に過激リアリティーショーが嫌いで、自身の中立性に疑念が湧いたこと、実際に人が亡くなっているという点を鑑み、上記のミーム進化論的な観点はあらわには持ち出さなかった。 だが背後の論理は同じなので、この観点から言い換えて要約する。 「誹謗中傷規制論」は、過激リアリティーショーに起因する 死亡事件への再発防止策、つまり過激リアリティーショー文化への致命的批判への対抗策として提案された。 しかし、「誹謗中傷規制」は実際には表現全体を規制する。 これは、事実上、「過激リアリティーショー趣味者」が自分の生存のために全体にミーム攻撃を行っているように見えるため、世間の返報規範により、逆に、「過激リアリティーショー趣味者」は絶滅につながる強力な反撃を受ける可能性が高いと警告した。 「誹謗中傷規制論者」「誹謗中傷規制反対論者」は当然「過激リアリティーショー趣味者」以外にもいるが、その勝敗は多数決で決まる。 脊髄反射的に「誹謗中傷規制論」に乗っかる意味は、その多数決へのアナウンス効果しかない。 「過激リアリティーショー趣味者」はアナウンスに利用され、ただ無意味に絶滅へと近づくだけで、批判をかわし生存するという目論見は達成できない。 ゆえに、逆に 最小限の自己規制の動きを見せ、後は黙っていることが長期的には、 過激リアリティーショーの、趣味としての存続の可能性をあげると結論し、提案した。 ただ、反応は ・私の論理を全て却下し、リアリティーショー好きへの攻撃とみなす ・私を「 リアリティーショー攻撃者 」とみなして、賛同したのちリアリティーショーを攻撃する のどちらかが多く、コンフリクトの調停にはつながらなかった。 演者の死が起点である以上絶対的な対立の動機があるし、私が過激リアリティーショーが嫌いということを正直に明かしてしまった時点で、その後の論理を読んでもらえなかった可能性も高い。 これは読者に一切責任はない。 ただ、いつものごとく、個別コンフリクトの直接調停が不可能であることを結果として論証しただけに終わった。 「Vtuber・リアリティー・ショー」論の無意味さ 私はYoutuber文化もVtuber文化も別に好きではないし、継続視聴を行っていないのも同様だ。 だが過激リアリティーショーほどは嫌いではないし、人が死んでいる、というような絶対的対立コンテクストはなさそうなので、多少は冷静に読んでいただけるだろう。 私のVtuber文化に対する理解は、CGアバターとキャラ設定をつけることで、システムとシグナリングが変更され、独自の客層がついたYoutuber文化、という程度の浅い認識である。 起点にしたいのは以下のブログ「みそは入ってませんけど」 以下みそ氏 でで展開されたVtuber批判、及びそれへの反応だ。 一応 勝手に要約する。 正確には読んで頂きたい。 ・みそ氏は元Vtuber文化ファン。 技術進歩への期待、アニメ好き、及びCGアバターを用いた コミュニケーション変革、社会に適応できない人々たちへの救済への期待などが原点。 ・しかしVtuber文化は、「リアリティーショー化」つまり「演者同士や客とのリアルなコミュニケーション」の商業化とその競争激化という、全く文化的オリジナリティのない、しかもむしろ 規範に反するものとなり、失望に終わった。 ・そしてとくに一部Vtuberはこれらの構造で 全人格の商品化、 切り売り、を行わされており、それは過激化している。 危険だ。 ・これはオタクが批判していたリアリティーショーと同じだ。 Vtuber好きは一貫性を保って自己批判せよ、選択を変更してVtuberを倫理的文化にしよう。 ・インプット、アウトプット、生身のコミュニケーションをしよう、そしてなるべく倫理的な趣味を持とう 正直、私にはかなり滅茶苦茶な論理展開に見えるが、論理を「批判」するのが目的ではない。 またこれに対する「批判」を紹介することもしない。 仮に論理展開が素晴らしくても受け入れられるわけがないこと、むしろ 倫理規範を広めたいという意味では逆効果であることを説明し、何故そんなことをしてしまうのかを推論し、代わりに何が可能か検討する。 まあ、とはいえ、 説明は自明だ。 そもそも、この記事にある「倫理的要請」を真面目に受け入れたら結論は「Vtuberを見ることをやめる」しか無い。 そこまで行かなくても、「罪悪感を覚えながらVtuberを見る」ぐらいであり、得することは一つもない。 つまりVtuber好きにとっては、ほぼ致死的ミームであるぐらい強いミーム攻撃なので、拒否される。 終わり。 ゆえに、否定されるのは「Vtuber」ではなく、 「倫理的要請」の方である。 それは自分の趣味を攻撃するミームなので、拒否したくなる。 たとえば、危険なコミュニケーションを避けろという規範自体に傷がつき、下手に真面目な人間はむしろ 危険なコミュニケーションは避ける必要がないと逆の行動にバイアスされてしまう。 これだけでもいいのだが、 「オタクが批判していたリアリティーショーと同じだろ、一貫性を保て」という部分も非常に貧弱かつむしろ逆効果な攻撃だ。 まず全オタクが批判していたわけではないという当然の事実があるが、それ以前だ。 一般に 「一貫性を保て」は何の強制力もない。 一貫性を守って死ぬのと、一貫性を放棄するので、前者を選ぶのは古臭いSF映画の狂AIだけだ。 人間は適当に本能で行動して、後から自己の行動原理を推論しているに過ぎない。 共同体でも同じだ。 共同体の規範も何らかの意味で必ず矛盾するが、そもそも共同体は論理的一貫性を保つためでなく、利益のために集まっているだけだ。 規範はその利益を調整するための内規にすぎない。 その中で、人や共同体が一貫性をなるべく守ろうとするのは、単に 信用問題、損得の問題だ。 損が一定以上になれば一貫性は放棄される。 「一貫性」が他人を攻撃する技術となれば、むしろ「一貫性」を普遍倫理として 受け入れる人間はどんどん減っていく。 他人の主張や倫理規範を攻撃したいときにだけ、とりあえず浴びせておく「武器」だ。 その武器は使うたびに鈍らになる。 そもそも、無矛盾な普遍倫理を掲げ、人や共同体はそれに従って一貫性を守りつづけるべきだ、などという思想は現代においては妄想だ。 それがどういった意味で「不可能」なのかは私ごときが論証するつもりはない。 言葉で説明すると長ったらしいが、こんな事大半の人間には 常識だ。 つまり倫理的要請をしたり、論証したりして何かを要求する、というのはミームとしての感染力はほぼゼロだ。 強いて言うなら、とくに他に好きなものはないが、 倫理的、かつ論理的でいるべきだというミームに感染した派閥だけが、行動より 倫理や論理っぽいものを優先するわけだ。 単に自分の派閥の好きなミームを、自分の勝手な認識能力で優先しているだけなのだが。 だから、件のみそ氏のブログには、Vtuber好きからの「反論」が並ぶ。 これらの反論が正しいかどうかなど正直どうでもいい。 これらの人々はただ 否認しているし、それは当然だ。 逆に、賛成する人もいる。 これは、もともと倫理規範っぽいもののほうがVtuberよりも好きな人だ。 結局、これを繰り返していくと、むしろ「倫理規範」を拒否する人間こそが「Vtuber」市場の割合として増えていく羽目になる。 これもほぼ自明な帰結だ。 なのに、みそ氏はなぜこんなことを書いてしまったのか。 まさか、Vtuber市場をより危険な場へと誘導する目的だったのだろうか?その可能性は否定できないが、とりあえずそうでないと仮定しよう。 倫理的な要請から出発し、論理を構築すれば他人を説得できる、という馬鹿げた思い込みが、自称、倫理、論理好きの人々にはある。 なぜそう思ってしまうのか。 自分は常に論理的に思考し、決定していると思っているから? 人間は、 論理的に思考して決定したほうが得な場合のみ、そうしようと努力する。 それが出来ない人を論理的思考能力がないという。 ゆえに、明らかに信念が現実に反し、自分のメッセージが否認されているのに、他人が「論理的に思考し、決定している」と思っている人間は、 論理的思考能力がない。 個人に倫理規範を問い、行動変容を促すことは、その帰結を気に入る人たちを選別するシグナルにしかならない。 これを繰り返すことで、表現の自由市場は分断され、危険なコミュニケーションは濃縮され、往々にしてむしろ 非倫理的な帰結となる。 そもそも解くべきコンフリクトは何か、解けるか ただ、上記で論証したのは 感染力をあげるためのミーム部分が致命的だという点だけだ。 そもそもの提案の妥当なところだけとりだせないか? ・そしてとくに一部Vtuberはこれらの構造で 全人格の商品化、 切り売り、を行わされており、それは過激化している。 危険だ。 もうすこし私が勝手に膨らましてみる。 「一部Vtuberは危険なコミュニケーションに晒されている状況が観測される。 楽しむ自由は最大限尊重しつつ、全体に最低限の規範を導入し、この危険性を緩和できないか?Vtuber文化を擁護し、発展させられる形である必要がある」 これは現代民主主義国家の一般的な規範として妥当性があり、 本気でやろうと思えば導入可能だと思うし、リアリティー・ショー批判のもととなっている規範構造と全く同じだ。 Vtuber特有の問題はなにもない。 非対称な会話コミュニケーション中心の文化では必ず発生する。 そもそも解決すべき「コンフリクト」は 「Vtuber演者の利益保護」VS「Vtuber文化を消費者として楽しむ権利」だけだろう。 このコンフリクトの解決の役に立たないのなら、Vtuber論やらコミュニケーション論、人生観、社会観、倫理観に関する議論などたいして意味はない。 読んでいて面白くないとは言わないが、それは対立しか生まない。 そもそも突然この手の「倫理的な文化こそ良い」という普遍倫理に目覚める動機など、特定のVtuberを見ていたら、何か酷い目にあっていて、可哀想に思ったとかその程度の話だろう。 それは人としては別に間違っていないのだから、クソみたいな普遍倫理や論理を捏造して世界を説得に掛かる前に、 「真・Vtuber連合」とか名乗って参加自由の巨大Vtuber事務所でも立ち上げたほうが早い。 名前は適当だ。 全てのVtuberの利益を直接擁護し、かつ気に入ったVtuber文化を新たに創り出せるのだから一石二鳥だ。 特定コンテンツに金を出すだけでは何も意味がないことは自明だろう。 あなたの倫理は単にあなたの好みだ。 みながそれに従っているから今がある。 それが 市場だ。 それが倫理的だというのなら、全ての人間はすでに倫理的だ。 そうではない普遍倫理があると本気で思っている人は、普遍化のために行動する。 一応言っておくと、私は 完全に無責任な事を言っている。 細かいVtuber運営システムや金銭的コストなど全く知らない。 スケール感すらわからないので出鱈目を述べるが、自由に他から移籍を認めるとか、トラブルを仲裁するとか、貸し出せるような共有のCGアバターを持つとか、なんか金をプールして色々と相互支援させるとか、強力な直接利益が必要だろう。 それでいて「各位なかよく」ルールを守ってもらうとか、「倫理的な」マネタイズ方法を考えるとか、実際のシステムは相当工夫する必要がある。 そしてその結果、ちゃんと人気が出て金が回らない限り存続の目はない。 普通、ビジネスにおいてマネタイズ手法を現状より倫理的にしたいというのは相当難しい制約なので、ギリギリの勝負になるだろう。 そして市場で規模を拡大するか、追従者が出てこなければ、結果は負けだ。 だがそもそもVtuberシーンにおいては、運営者以外に倫理規範をシステムとして実装できる主体は存在しない。 運営やオタクを攻撃して、気にいるようにしようなどというのはまた不毛だ。 普遍化したいなら自分でするしか無い。 とはいえ、全オタクの良心に語りかけてなにかの倫理規範を動かそうなどという狂気の沙汰より、自分で団体結成して具体的なシステムを論じるほうがよほど可能性がある。 めんどくせえ、そこまでやりたくないと言うのは、全然構わないのだが、多分あなたは私と同程度に無責任なので、そもそもオタクの倫理とか新しい文化とか言い出さないほうが良い。 その器ではない。 自分がなるべく倫理的だと思いこんで生きていたいだけならば、なるべく何もインプットせず、アウトプットもしないのが一番マシな方法だ。 「Vtuber批判論」への感想 最後に一応、引用した「Vtuber批判」に対する 感想を述べておく。 これは、引用先への批判というより、類似のVtuber論全体への雑感だ。 序盤の論理展開は「初めから自明だろ」以外に言いようがない。 そもそも、CGアバターを被せて、キャラ設定のペルソナを練りこめば、何か人間の コミュニケーションが本質的に変化し、人々が救済されると期待するのは意味不明だ。 だが 能力の向上は、競争を激化させるというのは自由市場の普遍法則のはずだ。 社会に適応できないのは コミュニケーション競争についていけなくなった人であって、後天的に魅力を努力や投資で向上できる手段が増えれば ただ競争は激化し、マクロには不適応者は増える。 これは自明だ。 もちろん、いままで不適応者だった人が特別に有利になる技術革新ならその限りでないが、CGアバターによる人気商売は明らかに違う。 会話や演技は高等技術であり、普通に考えたらコミュ力格差の原因で、これからもそうであり続ける。 本気でコミュニケーションの非対称性、それに起因する不適応者の苦痛の緩和をしたいなら、もうすこし真剣に考える必要がある。 リアリティーショーだろうと、CGアバター文化だろうと、好きな人は勝手に趣味として愉しめばいい。 それは全くの自由だ。 人間には自由がある。 自由は悪ではない。 余計な言い訳をする必要はない。 コンフリクトが発生したら、何かを攻撃する前に目の前の利害調整を行う他はない。 それを怠り、言い訳のためにだれかを悪だと批判したなら、当然あなたも批判され、裁判は多数決で終わる。 それが究極的な意味での 市場の審判だ。 単に金とモノではない、思想の自由と表現の自由と経済の自由だけの元での、完全なる自由市場だ。 それはそもそも出発点だ。 自由の 結果の不平等を悪とし、削減したいという 気持ちはわかるがそれはそんなに単純な問題ではない。 せめて削減しているつもりになりたいという気持ちも非常によくわかるが、それも多分別の逃れ得ない悪だ。 何でもいいからインプット・アウトプット・コミュニケーションして、倫理的な趣味を持とう、という部分に至っては笑うしかない。 黙ってそれを一人でやる分には、彼は慎ましい倫理的人間だ。 だが、他者を非倫理的だと攻撃し、安っぽい普遍倫理を命ずる人間は普通、カルトの教祖と呼ばれる。 カリスマがない場合は 教祖気取りという。 これも現代では常識のはずだ。 私のオリジナリティはない。 それに関して誰かになにかを読むように推奨するつもりもないが。 しかし、これを例えば件の記事に対して「批判」として投げかけても、何の意味もないだろう。 私の論理展開の根拠を受け入れている人は初めから私と同じ結論になり、それ以外の人は自分の立場によって態度を決めるか、無視する。 これもまた不毛なレスバトルに過ぎない。 これは、 誰かが特別に愚かなのではなく、コミュニケーションの場に信頼感がなさすぎるのが真因だ。 解消には人々の無前提な「反自己責任論」への納得が必要であり、これを良心に期待せず、かつ実行力を持った形で社会に導入していく方法は何か?というのが私の一連のnoteの目的なのだが……。 そろそろ私が別の 教祖気取りに見えてきたであろうから、ここで終わる。

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Vtuberはリアリティーショーか?:ミームとしての倫理規範|ヒラヤマ タカシ|note

ヒラヤマ タカシ

ゲーム実況がお好きな皆さまであれば 「 最終兵器俺達」の動画を 必ず一度は見たことがありますよね。 ラジオ感覚でトークを楽しむも良し、 仲の良い4人組の掛け合いを 楽しむも良し、有名な市販ゲームから コアなフリーゲームまで、 あらゆる方面で視聴者を楽しませてくれる エンターテイメント集団であることは 言うまでもありません。 最終兵器俺達の中でも、 ゲーム実況者に寄った活動を されているのがヒラさんです。 少年のような高めの声と、 天然な性格から 女性にはカワイイ!と大人気です。 しかしヒラさんの動向を追うと、 かなりオタクでツイ廃な一面も… 典型的なネットギークで 「実況系男子」なヒラさんについて プロフィールや気になる素顔を ご紹介していきたいと思います! スポンサードリンク 目次• しかし、最終兵器俺達が結成された 2009年頃、実はヒラさんは 動画の 助っ人としてたまに出演するに とどまっていました。 最初、キヨさんとこーすけさんが 青鬼実況で動画投稿を開始したものの こーすけさんが一時的にメンバーから 離脱した時期がありました。 その間キヨさんが投稿した 「足フェチの俺が鳥籠の少女を 助けてやんよ。 」実況にて ヒラさんが初登場しています。 2009年に動画投稿を開始してから、 4人で最終兵器俺達としての実況が 投稿されるまで約2年程の期間が 空いている事は意外にも 知られていません。 最終兵器俺達のメンバーは今でこそ イベントや生放送への出演が 多くなっていますが、ヒラさんは 最終兵器俺達としての活動以外では それほどパーソナルな仕事は受けて いない印象があります。 どちらかというと、 コンスタントに ゲーム実況者としての活動を されているようです。 ヒラさんが大人気な理由として、 ド天然であること、 若干の 不思議ちゃんであることがあり 発言に思わず笑ってしまうというのは 大きいのではないでしょうか。 「 致命傷で済んだ」 「 あいからわず」 といった数々の名 迷 言は ファンにとっても印象深く、 ニコニコ大百科にも まとめられています。 その他にヒラさんの特徴として 大きいところは 重度のツイッター廃人ということ ではないでしょうか。 今でこそ1日のツイート回数は 少なくなりましたが、過去は 1日中ツイッターに居て 誰かにリプを返しているという 時期もあった程… ツイッターの解析サービスで キヨさんと比較してみても、 ツイッターにどっぷりであることが 伺えます。 出典: 趣味はネットゲームや オンラインゲームで、 ギークな知識には精通している ようです。 キヨさんやフジさんがアクティブに 活動されているため、ヒラさんが インドア派で変わっている?と 思われがちですが、どちらかというと ヒラさんが 正当なゲーム実況者寄りの 人柄だということがわかりますよね。 スポンサードリンク ヒラ(実況者)の出身地や年齢は? ヒラさんを含む最終兵器俺達の メンバーは全員 北海道出身です。 全員が高校生時代に同級生だった ことをきっかけに実況動画を 投稿するようになったようですが、 ヒラさんとこーすけさんは 小学生以来の幼馴染でもあります。 現在では、撮影スタジオを兼ねる 最俺ハウスが東京にあることから、 東京に在住しているのが 明らかになっているようです。 東京に帰るべ。 過去特定されたことも バレたこともないようです。 お名前の情報がほとんどない ヒラさんですが、唯一マリオカート 個人実況の中で、対戦相手の 「ひーろー」さんに対し 「 俺の下の名前がいる」 という発言をしていました。 ゲーム中は大変余裕がない状況で 喋り続けていたため、 これがヒラさんのマリオカートの HN「ラーヒー」にかけた発言 だったのか、ヒラさんのお名前が 「 ひろ」さんなのかは 定かではありません。 ただ「下の名前」という言い方は お名前の一部がかかっている 場合にしか出ない発言では ないでしょうか? スポンサードリンク ヒラ(実況者)の素顔は?顔バレしたの? ヒラさんはニコニコ動画で 活動されていた当初、顔全体を覆う 覆面を付けて活動をされていました。 ヒラさんに限らず、こーすけさん、 キヨさん、フジさんも サングラスやマスクを着用して いましたが、ゲーム実況のみを 行っていた頃は、それほど顔を 出さなければならない機会も 無かったのですよね。 ニコニコのイベントやYouTubeでの 活動が増える程、人前に姿を出す 機会が増えていき、 ニコニコ町会議 全国ツアー2014の タイミングでヒラさんは 覆面を外す事を決意されたようです。 その後の動画やイベントでは、 ラフなマスクのみで出演されるように なりました。 時期によっては短髪であったり、 茶髪にしていたり、とても 爽やかな印象を受けます。 松山ケンイチさんや 二宮和也さんに 似ているといった評判も あるようですよ! しかしマスクの下の素顔は、 未だにネット上に流出していません。 これだけの知名度を誇りながら、 素性を隠し続けているのは さすがとしか言いようがありません… スポンサードリンク まとめ オタクなニコニコ信者から、 ライトな女性ファンまで 幅広いファンを抱えるヒラさんも 最終兵器俺達と同時期である 今年、 実況10周年を迎えます。 最終兵器俺達が高校の同級生から 10年来の仕事仲間になり、 トップYouTuberとして 時代を率先しているのは なんだか感慨深く なってしまいますね。 実写動画や最終兵器俺達以外の 実況者さんとの動画投稿も 徐々に増えてきたヒラさんの活動が 今後も広くバズっていくことを 祈っております! スマホアプリで臨場感のあるゲーム実況を 観戦(配信)する方法を紹介していますので、 よろしければ合わせてご覧ください。

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平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実|ヒラヤマ タカシ|note

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