緒方 洪庵 ペニシリン。 緒方洪庵(適塾、天然痘対策、コレラ対策、ライバル華岡青洲、卒業生達の活躍)

5分で緒方洪庵について!ペニシリンや杉田玄白との関係は?│れきし上の人物.com

緒方 洪庵 ペニシリン

本記事の内容• 龍馬は、命を狙われている仁の護衛をすると勝海舟に申し出たが、海軍を作る根回しなどがあるからと、護衛は恭太郎に任せられた。 女郎の往診で鈴屋を訪れていた咲に、野風が、先日咲宛に出した文を仁が見ていないことを確認した。 咲は見せていないと言い「野風様は先生をお慕いして?」と聞くと、野風は否定した。 一方仁は、婚約者の未来そっくりな野風をつい未来に重ねて見てしまっていた。 西洋医学所では、頭取の伊東が、山田が仁に渡すために無断でペニシリンを持ち出したことに苦言していた。 洪庵は費用は自分が立て替えると謝り、部屋を出た後、山田に「このことは南方先生には内密に」と言い、ペニシリンを守るための策を講じないと、と言った。 洪庵は体調が良くないようで、咳き込み吐血していた。 また、長い文を書きペニシリン製造について知人男性に相談していた。 医学所で揉め事が起きている事、南方先生とペニシリンは医学会が守らねばならない宝だ、と話していた。 仁は、西洋医学所を去ってからは何をするでもなく時間を過ごしていた。 未来の金である十円玉を眺めながら考え事をする仁に、咲は「戻れる道をお探しになっているのか」「今戻っても未来さんの手術が成功する世の中になっていないと、案じていらっしゃる」と言った。 仁が「どうしてわかったのか」と聞くと、咲は「先生が迷われるとしたらそれしかない」と言い、「判断を急ぐ必要はないのでは。 人にはいつか天命を授かる時が来ると言うのを聞きます」と言った。 やけどの治療 そこに喜市が急いだ様子で「(いなり屋の)あかね姉ちゃんが揚げ物の油を被った」と仁を呼びに来た。 仁は急ぎ店に向かい、茜の火傷を診察し「化粧をすれば分からない程度にできる」と言い、皮膚移植の手術を行うと言った。 手術には大量のペニシリンが必要なため洪庵に相談すると洪庵は了承し、「その手術を私の知人に見せたい」と言った。 洪庵が咳をするのを仁は心配した。 仁は管理にかかりきりの皆を気遣い、山田からペニシリンを受け取った。 その様子を医学所の反対勢力が「あの連中は何も反省していないようだ」と陰から見ていた。 その頃町では、長州がアメリカの船を攻撃したことがかわら版で報じられていた。 茜の皮膚移植の手術が始められ、洪庵が古い恩人だという知人男性を連れて来て手術を見学した。 その時、西洋医学所のペニシリン製造所から火事が発生していた。 ペニシリン製造所の火事 洪庵は仁の手術に釘付けで「この世の奇跡」と口走っていた。 そこに西洋医学所の所員が現れ、火事でペニシリンを全て失ったことを報せた。 仁はペニシリンがなくなった事態に脂汗をかき手を震わせた。 すると咲が、額の汗をぬぐい、蒸しますねと声をかけた。 仁は気持ちを立て直し手術を続けた。 洪庵の知人は仁に「ペニシリンなしで今後の治療をできるのか」と聞いた。 仁は「出来るだけ丁寧に縫合した。 皮膚の固定に気を配りまめに消毒を続けて行きます」と答えた。 山田が火の中に飛び込みペニシリンを一窯だけ持ち出すことができたが、製造所は全焼してしまった。 洪庵はかけつけた焼け跡の前で立ち尽くし、これまでの仁の尽力に思いを馳せていた。 そこに手術見学を終えた知人男性が現れると、洪庵は「私は頭取失格です。 事件の裏側には医学所内の派閥争いがある。 私は何一つ出来んかった。 南方先生から数限りない医術を与えられながら…」と言い咳き込み吐血した。 洪庵は「浜口様、後生でございます、お願いいたします」と膝をついて懇願した。 洪庵の遺言 仁は手術後西洋医学所を訪れたが洪庵には会えず、今後のペニシリン製造のめどを聞いたが、佐分利は「全力でやるが」と言うのみだった。 恭太郎は勝海舟を訪問し、龍馬が、巧みな話術で殿様から5000両借りられた、という話を聞いた。 その後恭太郎は吉原に行き、意中の女郎に眼鏡を贈った。 仁と咲はカビを集めたが思うようにいかず、ペニシリン入手のため医学所に頼み込みに行ったが佐分利に断られた。 仁たちが去った後、洪庵が佐分利に「同じ過ちを犯してはならない」と言った。 患者の茜は感染症をおこしかけていた。 仁は医学館に行き化膿に効く薬を頼んだが門前払いされた。 落ち込む仁に咲は「神は乗り越えられる試練しか与えない」と喜市が先生から言われた、と言って励ました。 橘家に帰ると仁に山田からのペニシリンが届いていて、文には「これから毎日このように届ける」とあった。 仁はありがたがった。 1863年6月、茜の傷は無事治り、仁は、佐分利にどうやってペニシリンを作ったのか教えてくれと言った。 佐分利は日本橋蛎殻町の倉庫に仁達を案内した。 そこは醤油の蔵で、山田が何とか持ち出した株を用い、醤油職人がペニシリンの製造を行っていると説明した。 皮膚移植の手術見学をしていたのは、醤油のヤマサの頭取・浜口様で、今回援助をして下さったという。 そこに浜口が現れ、仁に「あなたの医術を守りたいという緒方先生の心に打たれた。 何度も文を頂き足をお運び頂き、熱心さは恐ろしいほどだった。 緒方先生が命を削ってお作りになったものだ、あなたの為に」と言った。 そして、洪庵が重い労咳だと言った。 仁は洪庵宅に駆け付けペニシリンの礼を述べ、診察を申し出た。 洪庵は仁の診察を受けながら「私は医の道は平らな世に通じると思ってます」「未来は平らな世でございますか?先生は未来から来たお人でしょ」「そんなことはありえん、でも、何べん考えてもそうとしか思えんのですわ。 冥土の土産にするから教えて下さい」と言った。 仁は肯定した。 洪庵は「1年前大阪から召し出されたが心の中では寂しかった。 しかし南方先生の寂しさに比べれば私など…。 どうか、先生のその淋しさはこの洪庵にお分け下さい。 冥土に持って行きます」と涙ながらに言った。 仁も涙し「心細くはありましたが孤独ではなかった。 信じ支えて下さった方がいたから」と答えた。 仁は「この御恩にどう報いればいいのか」と聞いた。 洪庵は「より良き未来、平らな世をお作り下さい」と言った。 7月25日、洪庵は帰らぬ人となった。 日本各地を飛び回っている龍馬から「日本を一つにするぜよ」という内容が書かれた手紙を受け取った仁は、西洋医学と漢方が融合した治療を行う誰でも気軽にかかれるような病院を作ろうと思い立ち、「未来(みき)の腫瘍が治せる未来を作ってみせる」と写真に語りかけた。 仁は仁友堂という病院を設立した。

次の

「緒方洪庵,ペニシリン」に関するQ&A

緒方 洪庵 ペニシリン

緒方洪庵は、日本の武士・足守藩士、医師、蘭学者でもあります。 大坂に適塾を開き、優秀な人材を多く育てました。 天然痘やコレラの治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれています。 緒方洪庵について詳しく知りたいと思います。 NHKの「ヒストリア」などを参考にしています。 緒方洪庵とは 緒方洪庵は、1810年生まれで日本は鎖国状態でした。 1863年まで活躍し、享年は数えで54歳でした。 足守藩下級藩士・佐伯瀬左衛門惟因の三男として足守(現・岡山県岡山市北区足守)に生まれ、8歳のとき天然痘にかかったそうです。 15歳で父の仕事について大阪へ出ました。 翌年、私塾「思々斎塾」で4年間、蘭学、特に医学を学びました。 21歳の時には、江戸で坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだそうです。 26歳の時には、長崎へ遊学、オランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学びました。 この頃から緒方洪庵と名乗ったようです。 28歳の時には、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業し、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きました。 前年には、大阪で大塩平八郎の乱がおきています。 同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のちには6男7女をもうけました。 その翌年には、学者が捕らえられるなどした「蛮社の獄」が起きています。 7年後には、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転しました。 39歳の時には、京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始めました。 40歳の時には、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施しました。 8年後には、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘を免許制としました。 43歳の頃、ペリーが来航しています。 50歳の頃に、「桜田門外の変」が起きています。 52歳の時には、幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に出仕しました。 将軍徳川家茂や篤姫の侍医として仕えました。 12月26日「法眼」に叙せられました。 53歳 満年齢 の時には、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去しました。 主な著作は、「病学通論」「虎狼痢治準 ころりちじゅん 」「扶氏経験遺訓」「扶氏医戒之略」です。 「病学通論」は、なぜ病気になるのか理論的に考えた本です。 日本語で書かれた病理学書はなかった頃のことです。 「虎狼痢治準 ころりちじゅん 」は、1858年に日本でコレラが大流行したので、西洋医学の本などを参考にして書き、各地の医師に送ったそうです。 「扶氏経験遺訓」の扶氏ふしは、ドイツの名医フーフェランドのことです。 彼が50年の経験をまとめた内科書を翻訳しました。 その中の、医師が大切にすべき12項目をまとめたものが「扶氏医戒之略」です。 中でも、「医者は患者のために働くのであって自分のためではない」というくだりが考えさせられます。 こういう先生が現在何%いらっしゃるのでしょうか。 また、患者自身も、モンスターにならないようにしないといけませんね。 適塾 楽天 は28歳の時には、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業し、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きました。 1階は自宅として使い、2階は塾生の生活の場、学習の場や寝室として使われていました。 大分の下級藩士の二男・福沢諭吉も適塾で学びました。 適塾には、貧乏な者が多く襦袢もなく真っ裸ですごしていたり、汚いことも気にかけない者が多かったそうです。 塾生は全国から集まり、「姓名録」には637人載っていますが、名前の載っていない人も含めると1000人以上と言われます。 勉強をさせるための緒方洪庵の案とは 畳取り合いレース 適塾では、40畳の大広間に塾生が1人に1畳あてがわれていたそうです。 テストで上位の者には、日当たりの良い、窓のある場所の畳が当てられ、最下位の者には階段のそばの畳があてがわれました。 そこで、塾生達は、寝食を忘れるほど勉強しだしたそうです。 高価な洋書を借りて来た 緒方洪庵は、1冊の洋書を借りて来ました。 3日後には返さなくてはなりません。 洋書は珍しいもので、本の値段は今の価値で500万円もする物でした。 塾生達は、ただ返すのはもったいないので、2日間徹夜をして書き写しました。 天然痘対策 その当時は、天然痘 ウイルス感染症、高熱が出て全身に膿の水膨れ様のものが出る に罹った子どもがたくさん亡くなっていました。 緒方洪庵は、39歳の時には京に赴き、佐賀藩が輸入した種痘を手に入れました。 古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法 英国の医師ジェンナーが発見 による切痘を始めました。 多くの医師にその方法を伝えて予防に貢献しました。 4年間で6万人の子ども達に接種し、死亡率を激減させました。 種痘は、四方八方に、全国に広がっていきました。 コレラ対策 安政5年6月頃、長崎で二度目のコレラが発生しました。 そしてコレラの猛威は長崎から1ヶ月で西日本に広がり、また大阪や江戸までも広まりました。 この時の江戸の死亡者は24万人とも言われています。 大阪でも道端で吐いている者がおり、1日800人がコレラで死んだそうです。 その当時コレラの原因は不明で、適塾でも死者が出ました。 オランダ人のポンペという医師が、マラリアの治療に使われていたキニーネがコレラに効くと言いました。 そこで、ポンぺの治療法を採用する医者が多く、キニーネが不足し、全く間に合わないという事態になってしまいました。 この状態を見かねた洪庵は、「モスト」・「カンスタット」・「コンラジ」という3つの書物から、コレラについて書かれている部分を訳しまとめ上げ、「虎狼痢治準」として8月に100部刊行、無料で配布しました。 洪庵は「虎狼痢治準」とは別に、医者のために「家塾虎狼痢治則」という治療法を簡潔に記したものも書きました。 急いで書き上げられた「虎狼痢治準」は部分的に内容に反論をされたり、本を批判されたりしたが、洪庵は患者を救うことを第一に考えていました。 緒方洪庵のライバル、華岡青洲 ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったようです。 しかし、洪庵は華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあったそうです。 華岡青洲は、妹のお勝が33歳で乳がんで死亡したことから、乳がんの手術には全身麻酔が必要と感じ、その研究に没頭しました。 まんだらげ チョウセンアサガオ に着目し、他の薬と6種を混ぜて薬を作り、自分の体で実験しました。 その様子を見かねて、妻が自分を実験に使ってくれと申し出ました。 その後、妻は薬の副作用で視力を失いました。 10年以上経った1804年、ついに乳がんの患者に全身麻酔をかけて手術を行うことができました。 10時間後には、みごとに麻酔から目覚めました。 西洋よりも、なんと40年も早く全身麻酔を行うことができたのでした。 その後は、青森から福岡県までの143名の乳がん手術を行ったと言うことです。 華岡青洲は、76歳で死去しました。 適塾の卒業生達の活躍 作家の司馬遼太郎さんが、小学校の国語の教科書向けに書いた「洪庵のたいまつ」という文章があります。 洪庵のことを「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない」と褒めたたえています。 また、下記の通りにおおくの弟子に自分の知識や経験の"火"を伝えたことに対して「やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明りになったのである」と断言しています。 福沢諭吉 豊前中津藩蔵屋敷のあった大坂 大阪 堂島に生まれ、豊前中津藩(現・大分県中津市)で育ちました。 慶應義塾 慶應義塾大学 の創始者です。 江戸末期に蘭学から英学者へと転じ、江戸幕府の遣欧使節として3回派遣されました。 「学問のすゝめ」で人間の自由、平等や権利の尊さを説きました。 大村益次郎 周防国の医師の家に生まれました。 適塾塾頭でした。 宇和島藩、幕府講武所教授などを経て長州藩に使えた。 洋学・兵学に明るく、近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想しました。 明治維新の原動力となりました。 橋本左内 福井県生まれ、幕末の志士です。 父は福井藩医でした。 大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修得、その後江戸に遊学し、藤田東湖、西郷隆盛らとも交友しました。 帰国後、書院番・藩校明道館学監同様心得などに取り立てられ、横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となった。 安政4年(1857)江戸に赴いて藩主松平慶永に仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走しましたが、井伊直弼の大老就任により挫折。 安政の大獄により江戸で斬首されました。 佐野常民 日本の武士・佐賀藩士で、明治期には元老院議員となりました。 西南戦争で敵味方の区別なく負傷者を救護する「博愛社」を創立。 博愛社は日本赤十字社となり、初代社長となりました。 官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿を務めました。 勲一等、伯爵。 佐賀の七賢人に挙げられています。 手塚良仙 幕末・明治の医師・蘭学者です。 息子は司法官の手塚太郎。 大槻俊斎は義弟にあたります。 漫画家の手塚治虫の曾祖父です。 大鳥圭介 日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官でした。 正二位勲一等男爵。 長与専斎 大村藩出身、日本の医師、医学者、官僚。 大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となりました(福澤諭吉の後任)。 のち大村藩の侍医にもなりました。 明治時代には内務省衛生局長などに就任し、衛生行政の基礎を作った。 高松凌雲 幕末から明治期の医師で、現在の福岡県小郡市出身でした。 箱館戦争では箱館病院を開院。 その後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設しました。 日本における赤十字運動の先駆者とされます。 洪庵の人柄と教養 洪庵の人柄は温厚至極で、およそ怒りを発したことが無かったそうです。 福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり。 」と評しています。 学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責したようです。 笑顔で教え諭すやり方で、これではかえって塾生は緊張し「先生の微笑んだ時のほうが怖い。 」と塾生は言っていたそうです。 語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語で先生の意味)と呼ばれ敬愛されました。 原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたのようです。 洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせました。 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し 英語学習も開始しました。 洪庵自身や門人、息子にも英語を学ばせるためでした。 柔軟な思考は最後まで衰えなかったそうです。 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注ぎました。 患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためだそうです。 また、診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに 花見、舟遊び、歌会に興じていたようです。 和歌は最も得意で、古典への造詣の深さがうかがわれます。 洪庵のたいまつ 作家の司馬遼太郎さんが、国語の教科書 小学生用 に「洪庵のたいまつ」という文章を書いています。 「世のためにつくした人の一生ほど美しいものはない」そして、適塾では、自分が得た知識や経験の火を伝えたことについて、「やがては、その火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである」と絶賛しています。 洪庵ゆかりの場所 緒方洪庵誕生地 岡山市北区足守にあります。 岡山県の指定史跡となっていて、一帯が公園として整備されています。 銅像と石碑が立っています。 適塾 大阪市中央区北浜にあり、江戸時代の町屋の木造二階建てです。 国史跡・重要文化財に指定されています。 ビルが立て並ぶオフィスの一角にありますが、中を見学できます。 一般260円、高・大学生140円、中学生以下は無料。 問い合わせは06-6231-1970 除痘館記念資料室 大阪市中央区今橋、洪庵の除痘館の跡地に建てられたビルの一室にあります。 資料やパネルで詳しく説明してあります。 日曜・祝日休館、無料。 問い合わせは緒方洪庵記念財団06-6231-3257.

次の

緒方洪庵(適塾、天然痘対策、コレラ対策、ライバル華岡青洲、卒業生達の活躍)

緒方 洪庵 ペニシリン

北里柴三郎医学博士 生誕 1853-01-29 (期)小国郷北里村(現・阿蘇郡) 死没 1931-06-13 (78歳没) 国籍 研究分野 研究機関 コッホ研究室 出身校 博士課程 指導教員 博士課程 指導学生 主な業績 純粋培養 の発見 と破傷風の毒素に対する開発 ジフテリア抗血清の製造開発 の病原菌共同発見 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、(5年) - (6年))は、日本の者・者・・。 「 日本の細菌学の父」として知られ、を発見し、またの治療法を開発するなど医学の発展に貢献した。 議員を務め、は・・。 、私立伝染病研究所(現・)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・)創立者兼運営者、第1回最終候補者(15名のうちの1人) 、私立北里研究所、(現・)創立者兼初代所長ならびに学祖、(現・)創立者兼初代医学科長、初代病院長、創立者兼初代会長、株式会社の設立者である。 名字の正しい読みは「きたざと」であり、子孫や出生地の、北里柴三郎記念館などでの発音は「きたざと」である 、学校法人北里研究所(北里大学)、紙幣デザインに選ばれた際のの発表、それを受けたテレビ局などでは「きたさと」と濁らず発音している。 これは北里が留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらう為に、で「ざ」と発音する「sa」を使い、「Kitasato」と署名したところ、では「きたさと」と発音され、一般的となっていった為である。 「伝染病研究所」の外観を模した近代医科学記念館() 北里柴三郎は小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれた。 父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。 母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。 柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。 闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる。 柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父からを教わった。 帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。 その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。 1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩のに入寮したが翌年7月に廃止され、に入学した。 そこで柴三郎は教師のに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。 マンスフェルトから特別に語学を教った柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。 マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている。 柴三郎は(8年)に(現・)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。 (明治16年)には、医学士となった。 在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。 演説原稿が残っている。 卒業時の成績は26名中8位であった。 その後、が局長であったへ就職した。 留学時代 [ ] 、にて日本人留学生と。 前列左より、、、、、、。 中列左から、1人おいて、1人おいて島田武次、、、北里、。 後列左から、、北川乙次郎 柴三郎は同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていたの計らいにより、(明治18年)よりドイツのへ留学した。 そこで、に師事し大きな業績を上げた。 (明治20年)、陸軍省医務局長はベルリンを訪問、柴三郎に研究室に移るように指示したが、コッホと面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを目のあたりにした石黒は、異動命令を撤回した。 (明治22年)、柴三郎は世界で初めてだけを取り出す破傷風菌純粋法に成功した。 翌年の(明治23年)には破傷風菌を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。 さらにという、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。 1890年(明治23年)には血清療法をに応用し、同僚であったと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。 第1回の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。 柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、や(選考にあたった)が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと 、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている。 柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない。 論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から多くの招きのオファーを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に日本に帰国した。 帰国後 [ ] 北里柴三郎はドイツ滞在中に、の原因を細菌とする東大教授・の説に対し脚気菌ではないと批判した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」の烙印を押され、母校の東大医学部と対立する形になってしまった。 それは単に東大を敵に回すことだけでなく柴三郎自身の研究者生命も危うくすることを意味していた。 日本に帰国した柴三郎は自分の希望する研究ができると思っていたが、実際は北里の思う通りには行かなかった。 東大と対立した柴三郎を研究者として暖かく受け入れてくれる研究所はどこもなく、学界に大きな力と人脈を持つ東大を恐れて誰も援助する者もいなかった。 研究者・北里柴三郎はまさに孤立無援の状態であり、これが東大の恩師を敵に回した者の厳しい現実だった。 そんな時、この北里柴三郎の危機的状況を静かに目撃していたは海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれにふさわしい研究環境が用意されない日本の状況を深く失望して、福沢諭吉の全面協力、多大な資金援助により北里柴三郎の為の「私立伝染病研究所」を設立することにした。 そして、北里柴三郎は福沢に感謝して、そこの初代所長となった。 その後、私立伝染病研究所は国から寄付を受けて管轄の「国立伝染病研究所」(現・)となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。 (明治27年)にはの蔓延していたに政府より派遣され、病原菌であるを発見するという大きな業績を上げた。 かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。 これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な対立が背景にあるといわれている。 その伝染病研究所は(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里柴三郎はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大を憎悪していた為、すぐに所長を辞任した。 そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・。 の母体)を設立した。 そこで新たに、、、、などの血清開発に取り組んだ。 福沢諭吉の死後の1917年(大正6年)、北里柴三郎は福沢諭吉による長年の多大なる恩義に報いる為、「」を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。 新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な(第2代慶應医学部長、第2代会長)や、赤痢菌を発見したなど北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。 また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として「」が誕生した。 その後、(大正12年)に医師法に基づくとなり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。 経歴 [ ]• (5年)- 北里村で代々総を務めたの支流の家に生まれる。• 1866年(2年 - 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門する。 1869年()- 12月、のに入寮。 学問・武芸に励む。 1871年() - 2月、熊本の古城医学所病院に入学。 蘭医のに師事。 1875年(8年)- 4月、22歳で(1877年、と改称)に入学する。 1883年(明治16年)• 4月、(第6代日銀総裁)の長女・乕と結婚。 7月、東京大学医学部卒業 (予科3年、本科5年の課程を7年半で修了)。 11月、衛生局に奉職。 1885年(明治18年)- 11月、留学を命じられる。 1886年(明治19年)- 1月、ドイツの研究室に入り研究を開始する。 (明治22年)- とともに世界で最初にの純粋培養に成功する。 (明治23年)- 世界で初めてを発見し、毒素とに対する抗血清を開発する。 12月、肺結核治療研究のため皇室から金一千円を下賜され、留学期間を1年延長(内務省は休職)。 (明治24年)- 8月、の学位を受ける。 (明治25年)- 日本に戻りらの援助により設立された「」の所長に就任する。 北里の墓()• 1894年(明治27年)- 2月、伝染病研究所を芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始する。 5月には日本政府によりへ調査派遣され、6月、感染症である腺の病原菌を共同発見した。 ほぼ同時に、 ()もペスト菌を発見した。 最初、ペスト菌は pasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今では Yersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。 1899年(明治32年)- 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管される。 4月、所長に就任する。 (明治34年)- 第1回の公式候補に選ばれる。 1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。 9月、会員に任命される。 1908年(明治41年)- 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。 1913年(2年)- 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任する。 (大正3年)- 伝染病研究所が内務省からに移管されに合併される際、移管に反対して所長を辞任する。 この時、をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。 「伝研騒動」といわれる。 11月5日に私費を投じて「」を設立、初代所長に就任する。 1915年(大正4年)- 「恩賜財団済生会芝病院」(現・)設立とともに初代院長となる。 1916年(大正5年)- 11月、府県の医師会を統合して大日本医師会を設立、会長に就任する。 (大正6年)-「」の創立に尽力し初代学部長となる(医学科であったが1920年(大正9年)に医学部と改称)。 1923年(大正12年)- 「」を創設。 初代会長に就任する。 1924年(大正13年)- 2月、男爵叙爵。 1928年(3年)- 5月、医学部長を辞任、顧問就任。 (昭和6年)- 5時、のため東京・の自宅で死去。 享年80。 6月17日、で葬儀。 青山墓地に葬られる。 栄典 [ ] 位階• 1899年(明治32年)5月20日 -• 1904年(明治37年)6月10日 -• 1909年(明治42年)6月21日 -• 1914年(大正3年)• 7月10日 -• 11月30日 -• 1931年(昭和6年)6月13日 - 勲章等• 1892年(明治25年)12月29日 -• 1894年(明治27年)10月13日 -• 1906年(明治39年)4月1日 -• 1911年(明治44年)8月25日 -• 1919年(大正8年)10月25日 -• 1920年(大正9年)• 6月11日 -• 12月1日 -• 1924年(大正13年)2月11日 - 男爵• (大正14年) -• 1928年(昭和3年)11月10日 -• 1931年(昭和6年)• 1月16日 -• 6月13日 - 外国勲章佩用允許• 1909年(明治42年)8月20日 - :星章赤鷲第二等勲章• 1910年(明治43年)12月24日 - :サンオラフ第二等甲級勲章• 1914年(大正3年)5月14日 - :コマンドゥール 学術賞• 1892年(明治25年)5月1日 - プロイセン王国:プロフエッソル 親族 [ ] 妻の乕(とら、1867 - 1926)はの次女。 1883年に結婚し、6人の子(3男3女)を育てる。 長男・俊太郎(1895 - )は法科、次男・善次郎(1897 - )は理科に進んで成業し、末男・良四郎(1907 - )は工学に進んで実業家となる。 長女・安子(1893 - )は女学部を出ての妻となる。 長男の俊太郎は土木・鉄道技術者の の三女・てる子と結婚し一児をもうけたが、在職中の1925年に9歳年下の22歳のの・琴寿とで未遂(芸妓は水死)を起こし 、てる子と離婚後、1927年にの絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚した (前妻てる子は大蔵官僚で初代頭取のと再婚 )。 柴三郎にはも複数あり、柴崎ナカとの間に文太郎(1918 - )、武次郎(1922 - 、のち生物学者)、三村こおとの間にトミ(1915 - )、陽子(1918 - )、正十郎(1921 - )をもうけた。 弟の北里裟袈男は帝国生命保険会社(現・)の大株主であり常務取締役、弥生顧問で、妻は柴三郎の妻の妹。 妹のいくはの蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の。 別の妹しうは、惟暁の弟で政治家のの妻で、その息子に評論家の。 の会長を務め、最高顧問となったは孫にあたる。 ほかの子孫には熊本県議会議長を務めたがいる [ ]。 医道論 [ ] 以下は北里研究所誌より。 北里は1877年ごろから同盟社という学生結社を組織し、社会活動を志すなら雄弁でなければならないと、毎週土曜に演説会を開き切磋琢磨していた。 1878年4月は「医道論」を書き、予防医学を力説した。 原稿が残っている。 昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。 医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。 ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目当てに病気を治すことで満足する者がいる。 今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。 ついで、医学生、開業医に向かい、現状を批判、昨年のコレラの流行を引用、悲憤慷慨し、予防医学の大切さを訴えている。 最後に自作の七言絶句で決意を披歴している。 北里とハンセン病 [ ]• 第1回国際ハンセン病学会は1897年(明治30年)にで行われた。 日本からはが出席、北里は出席はせず、日本の事情を誌上発表している。 第2回ハンセン病学会は1909年にので開催され、北里は招待されて出席した。 集合写真では、北里はの隣に座っている。 北里は日本におけるハンセン病(Die Lepra in Japan)と言う題で発表した。 前半で日本の現状、草津での疫学調査、鼻腔内感染者の考察、後半はを使った感染実験、ネズミのハンセン病類症(鼠らい)とその細菌学的研究を述べている。 北里は伝染病研究所を創立してまもなく、ハンセン病の研究を開始している。 これは私立らい療養所である目黒の慰廃園から専門医の派遣を要請されて行ったものである。 一種の免疫療法剤である「レプリン」を開発したが、あまり有効ではなかった。 『日本らい史』には、約3年間に180名を治療、全治4名、全治に近いもの3名、死亡2名、その他は快方に向かいつつあるとあるが、ハンセン病の自然治癒を薬剤効果と間違えたと考えられるという文献を引用している。 来日したは、1895年熊本に回春病院というハンセン病病院を設立した。 その後、敷地内にハンセン病研究所を企画した。 1917年にリデルの頼みに応じ、北里研究所の内田三千太郎を研究所長に割愛した。 回春病院の経営にも支援し、1918年(大正7年)の回春病院の募金活動趣意書に発起人として北里の名を連ねている。 業績 [ ] 邦文業績 [ ] 以下は北里研究所誌より。 「蒼蠅ハ病毒伝染ノ媒介者」大日本私立衛生学雑誌7号、pp. 14-17(1883)• 「妊娠ヲ鑑別する新法」 中外医事新報96号、pp. 1-2(1884)• 「肝蛭(肝臓ジストマ)ノ発生スル理由」 中外医事新報99号、pp. 1-3(1884)• 「痰中にあるコグ氏(コッホ)黴菌試験法」 中外医事新報122号、pp. 1-5、123号、pp. 8-13(1885)• 「鶏虎列刺(トリコレラ)菌発見 (緒方正規、北里柴三郎共著) 官報561号、pp. 15-16(1885)• 「衛生上飲料水簡易試験法」 大日本私立衛生会雑誌29号、pp. 44-59(1885)• 「赤痢菌探究」東京医事新誌409号、pp. 155-158、410号、pp. 189-192(1885)• 「長崎県下虎列刺病原ノ談」 大日本私立衛生会雑誌31号、pp. 14-26(1885)• 「第8回コッホ記念講演開會の辞」細菌學雑誌316号、pp. 54-55(1922)• 「微生物ノ研究及應用」北里柴三郎記念室史料34号(1918、北里研究所)• 「學問の神聖と獨立」三田評論211号、pp. 15-19(1915)• 「結核のツベルクリン療法に就て」細菌學雑誌199号、pp. 331-345(1912)• 「万國學藝會議状況」細菌學雑誌108号、p. 630(1904)• 「に関する研究」傳染病研究所一覧(明治32年1月)pp. 78-80(1899、傳染病研究所)• 「論説」細菌學雑誌25号、pp. 1-4(1897)• 「惡性水腫菌、ラウシュブラント菌(鳴疽菌)、破傷風菌、インフルエンザ菌」傳染病研究講義、pp. 26-119(1896、傳染病研究所)• 「インフルエンザ菌」傳染病研究講義、pp. 115-119(1896、南江堂)• 「實布垤里亞()及虎列刺()病治療成績報告」細菌學雑誌1号、pp. 3-56(1895)• 「事業の成績 實布垤里亜・破傷風」傳染病研究所一覧、pp. 11-25(1895、傳染病研究所)• 「癩病」傳染病研究所一覧、pp. 21-22(1895、傳染病研究所)• 「ペスト菌ニ就テ」細菌学雑誌13号、pp. 923-938(1895)• 「ペスト病の原因調査 第1報報告」官報3326号、3327号、pp. 367-368、pp. 5-7(1894)• 「ペスト病の原因取調に就て」大日本私立衛生會雑誌135号、pp. 634-673(1894)• 「ペスト病ノ原因調査第一報告」東京醫(医)學會雑誌8号、pp. 698-707(1894)• 「ペスト病調査復命書」官報3327号、pp. 5-7(1894)• 「ペスト病調査復命書」官報3326号、pp. 367-368(1894)• 「傳染病研究所設立の必要」大日本私立衛生會雑誌110号、pp. 501-509(1892)• 「論説」細菌學雑誌25号、pp. 787-790(1887)• 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌410号、pp. 189-192(1886)• 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌409号、pp. 155-158(1885)• 「長崎縣下虎列刺病原ノ談」大日本私立衛生會雑誌31号、pp. 14-26(1885)• 「医道論」北里柴三郎記念室史料2(1878、北里研究所)• 「傳染病研究所ノ内務省所管ナラサルヘカラサル事」北里柴三郎論説集、pp. 1219-1224• 「結核豫防の急務」(1925年4月28日、第1回結核予防デーに東京放送局より放送)、社團法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協會、pp47-49(1925) ドイツ留学中の業績 [ ] 以下は北里研究所誌より。 日本のコレラ (ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. ,13:921-922,1887. チフス、コレラ菌の酸、アルカリ培地での様態 (ドイツ語)Z. Hyg. , 3:404-426,1888. 敗血中のらせん菌の純培養と重層らせん菌 (ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit. 3,73-75, 1888. コレラ菌の乾燥及び熱にたいする抵抗性 (ドイツ語)Z. Hyg. , 5, 134-140, 1889. 人糞中コレラ菌の様態 (ドイツ語)Z. Hyg. , 5, 487-490, 1889. 乳汁中コレラ菌の様態 (ドイツ語), Z. Hyg. , 5, 491-496, 1889. 人工培養で他種の病原、非病原菌に対するコレラ菌の様態 (ドイツ語)Z. Hyg. , 6, 1-10, 1889. コレラ菌の乾燥および熱にたいする抵抗性 追加報告 (ドイツ語)Z. Hyg. , 6, 11-12, 1889. 菌培養試験 (ドイツ語)Z. Hyg. , 6:105-116, 1889. 破傷風の病原菌 (ドイツ語)Ztsch. med. Wschr. 15:635-636, 1889. 破傷風菌 (ドイツ語)Z. Hyg. 7:225-234, 1889. チフス類似菌に対比し、チフス菌のインドール反応は陰性 (ドイツ語)Z. Hyg. 7:515-520, 1889. 麝香菌 (ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit. 5: 365-369, 1889. 嫌気性菌の新知見 (ドイツ語)Z. Hyg. , 8:41-47, 1889. 気腫疽菌の固形培地での発育 (ドイツ語)Z. Hyg. , 8:55-61, 1890. 土壌中の深度と炭疽菌芽胞形成性の調査 (ドイツ語)Z. Hyg. , 8:198-200, 1890. 嫌気性菌の新知見 第2報 破傷風菌(ワイル共著) (ドイツ語)Z. Hyg. , 8:404-411, 1890. 動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立(ベーリング共著) (ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. 16:1113-1114, 1890. Behring und Dr. Kitasato , Deutsche Medicinische Wochenshrift 49, 4. December 1890. 嫌気性菌の新知見 第3報(ワイル共著) (ドイツ語)H. Hyg. 9: 97-102, 1890. 破傷風毒素に関する実験的研究 (ドイツ語)Z. Hyg. 10:267-305, 1891. インフルエンザ菌とその培養法 (ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. 18:28, 1892. 喀痰中の結核菌とその他病原菌の純粋培養 (ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskrh. 11: 441-444, 1892. 免疫と抗毒性について(ブリーゲル、ワッセルマン共著) (ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12: 137-182, 1892. 破傷風動物の治療実験 (ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12: 256-260, 1892. 結核モルモットのツベルクリン療法 (ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12:321-327, 1892. 帰国後に論文になったもの(欧文論文のみ) [ ] 以下は北里研究所誌より。 香港のペスト(ラウソンによる速報) (英語)Lancet, 1894 ii , August 11:325,1894. 腺ペスト菌 (英語)1894 ii August 25:428-430,1894. ペスト(中川愛咲共著) (英語)Twentieth Century Practice, vol. 7, Infectious Diseases, p. , Boston, 1898. 明治32年11月から明治33年1月までの神戸、大阪のペスト流行調査報国(高木友枝、志賀潔、守屋伍造共著) (ドイツ語)内務省衛生局報 1900年 1-104, 1900. 和牛と結核(牛結核)との関係 (ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 48:471-484, 1904. Boston, 1906. 日本のペスト撲滅対策 (英語)Philippines J. Sci. 1: 465-481, 1906. 日本のペスト撲滅対策 (英語)New York Med. 84: 1-29, 1906. 日本のハンセン病 (ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:507-516, 1909. 日本の結核病 (ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:517-520, 1909. 日本のペスト (ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 64:279-284, 1909. 日本のペスト予防 (英語)Reports of the International Plague Conference, Bureau of Printing, Manila, 244-247, 1912. ペストについて (ドイツ語)Berliner klinische Wschr. 41:1881-1884, 1913. 栄誉一覧 [ ] 以下は北里研究所誌より。 勲三等(日本、1892年)• プロフェッソルの称号(プロシア、1892年)• 勲三等(日本、1894年)• ロンドン衛生研究所名誉所員(イギリス、1895年)• イタリア王国衛生会名誉会員(イタリア、1896年)• イギリス衛生院名誉会員(イギリス、1896年)• カタルーニア衛生院名誉会員(スペイン、1898年)• ロシア陸軍軍医大学校名誉会員(ロシア、1899年)• ベルリン万国結核中央予防局名誉会員(ドイツ、1901年)• 国際結核予防協会名誉会員(ドイツ、1902年)• マニラ医学会名誉会員(フィリピン、1903年)• アメリカ熱帯医学会名誉会員(アメリカ、1903年)• ニューヨーク医学会名誉会員(アメリカ、1904年)• ハーベン学会名誉会員(イギリス、1904年)• ロンドン伝染病学会名誉会員(イギリス、1904年)• セントルイス科学協会名誉会員(アメリカ、1904年)• ロンドン王立内科外科学会(現・ロンドン王立医学協会)名誉会員(1905年)• 勲二等瑞宝章(日本、1906年)• 会員(日本、1906年)• ロンドン王立公衆衛生学会名誉会員(イギリス、1907年)• 第6回国際結核予防会議名誉通信会員(オーストリア、1907年)• (イギリス、1908年)• パトリジー・エキゾーチック学会名誉会員(フランス、1908年)• 星章赤鷲第二等勲章(ドイツ、1909年)• ロンドン熱帯病学会及び衛生学会名誉会員(イギリス、1910年)• ベルリン医学会名誉会員(ドイツ、1910年)• サン・オラフ第二等甲級勲章(ノルウェー、1910年)• 熱帯医学会名誉会員(フランス、1912年)• アメリカフィラデルフィア哲学会会員(アメリカ、1914年)• コマンドール・ド・ロフドル・ナシオナル・ド・ラ・レジオン・ド・ヌール勲章(フランス、1914年)• フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員(アメリカ、1914年)• フランス学士院医学部会員(フランス、1916年)• 男爵(日本、1924年)• ハーベン金牌(イギリス王立公衆衛生院)(1925年)• レニングラード微生物学会名誉会員(ロシア、1926年)• ウィーン微生物学会名誉会員(オーストリア、1926年)• レオポルディナ・ドイツ帝国自然科学学士院会員(ドイツ、1926年)• 国際微生物学会名誉会員(フランス、1930年)• 勲一等(日本、1931年) 著書 [ ] 単著 [ ]• 『黴菌学研究』宇都宮綱条編、英蘭堂、1893年7月。 『北里医学博士演説』君沢田方郡私立衛生会、1893年7月。 『ペスト病ノ原因調査第一報告』、1894年8月。 『恙虫病原調査報告書』伝染病研究所、1894年12月。 『実布垤利亜及虎列剌病治療成績報告』伝染病研究所、1895年1月。 『伝染病研究講義』第1巻、中川愛咲編纂、、1896年11月。 『「ペスト」ト蚤ノ関係ニ就テ 淡路島由良町ニ於ケル「ペスト」流行ノ研究』東京市役所、1909年3月。 『肺の健康法』広文堂、1910年12月。 『北里細菌及伝染病学雑纂』金原商店、1911年6月。 『伝染病予防撲滅法』家庭之衛生社、1911年12月。 『強肺深呼吸法』広文堂〈最新衛生叢書 第1編〉、1911年12月。 『伝染病予防撲滅法』家庭之衛生社〈通俗伝染病叢書 第1編〉、1911年12月。 『腸窒扶斯とパラチフス』家庭之衛生社〈通俗伝染病叢書 第2編〉、1912年8月。 『虎列剌予防法』家庭之衛生社〈通俗伝染病叢書 第3編〉、1912年10月。 共著 [ ]• 北里柴三郎、『北里柴三郎破傷風菌論』哲学書房〈能動知性 1 生の場〉、1999年12月。 編集 [ ]• 『北里研究所一覧』北里研究所、1915年12月。 『北里研究所一覧』北里研究所、1918年10月、第3版。 校閲 [ ]• 柳下士興、斎藤粂次郎『虎列剌赤痢予防消毒実施手控』柳下釧之助、1895年5月。 遠城兵造『臨床的細菌検査法』日本医事週報社、1896年8月。 『ペスト』石神亨編、石神亨、1899年12月。 『ペスト』石神亨編、石神亨、1900年3月、増補再版。 柴山五郎作『最近之肺結核療法』山本重傑、1901年2月。 柴山五郎作『最近之肺結核療法』誠之堂書店、1907年11月、改訂増訂10版。 柴山五郎作『最近之肺結核療法』誠之堂書店、1912年5月、改補改版(12版)。 『赤痢病論』佐藤嘉六、1901年6月。 岡崎祇照『袖珍細菌学』南江堂、1904年12月。 柴山五郎作『社会教育 肺結核』誠之堂、1907年3月。 作品集 [ ]• 『北里柴三郎論説集』北里研究所、1978年12月。 『北里柴三郎読本』上 北里柴三郎伝 北里柴三郎論説選(前篇)、、2013年1月。 収録:破傷風病毒菌及びそのデモンスタラチオン, 緒方氏の脚気バチルレン説を読む, 与森林太郎書, 伝染病研究所設立の必要, 赤痢病流行に就いて, 種痘に就いて, ローベルト・コッホ氏の黴菌学上コレラ診断法の現況, 恙虫病原に就いて, ペスト病の原因取調べに就いて, 免疫試験結果の報告, コレラ病血清療法に就いて, 伝染病予防法大意, 牛痘免疫法, 天然抗毒素の所在についての質疑, 医学博士中浜東一郎君に答う, 伝染病予防接種法に就いて, 輓今に於ける血清療法の価値, 前年中に於ける海外衛生上の報道, ペストに就いて, 挨拶• 『北里柴三郎読本』下 北里柴三郎論説選(後篇)、書肆心水、2013年1月。 収録:ペスト予防接種に就いて, 免疫血清談, 伝染病に就いて, 慢性伝染病予防に就いて, 伝染病の予防に関する二、三の注意, ペスト予防に就いて、流行性脳脊髄膜炎に就いて, 二、三の伝染病に対する注意, 結核の蔓延及び予防, ローベルト・コッホ先生, ペスト病予防に関するコッホ氏の意見, 日本に於けるペスト蚤説の証明, 欧洲視察談, 伝染病予防に就いて, 腸チフス予防に関する注意, 故恩師ローベルト・コッホ先生を弔う, 医師試験と医科大学, 伝染病研究所の内務省所管ならざるべからざる事, 労働者の保護、結核病に就いて, 挨拶, 伝染病研究所辞職の理由, 陳情書, 伝染病研究所全所員に対する告別, 北里研究所設立趣旨書, 北里研究所設立披露, 結核療法の進歩, 結核の蔓延及びその予防, 開所の辞, 学問の神聖と独立, コレラ研究の回顧, コレラ, ペスト, 開会の辞, 医師奮起の要望, 挨拶, コッホ未亡人宛書翰訳文, 式辞• 『北里柴三郎学術論文集 日本語翻訳版』林志津江・森孝之・檀原宏文・手塚甫訳、北里研究所〈北里柴三郎研究シリーズ 2〉、2018年11月。 収録:日本におけるコレラ, チフス菌およびコレラ菌の酸またはアルカリ性培地に対する反応について, 腐敗血液に由来するらせん菌(Spirillum concentricum n. )の純粋培養について, 緒方の「脚気菌」、脚気の病因論に関する研究について, ペーケルハーリングおよびヴィンクレルの「ベリベリ」に関する報告について, ペーケルハーリングおよびヴィンクレルの上掲反論に対する覚書, コレラ菌の乾燥および熱に対する抵抗力, 人糞中でのコレラ菌の反応, 牛乳中でのコレラ菌の反応, 人工培地中のコレラ菌がおよぼす他の病原性および非病原性微生物に対する反応について, コレラ菌の乾燥および熱に対する抵抗力, 気腫疽菌とその培養法について, 破傷風病原体について, 破傷風菌について, チフス菌が有する他のチフス菌類似細菌とは異なったインドール陰性反応, 麝香菌について, 嫌気性細菌に関する知見, 気腫疽菌の固形培地における増殖について、気腫疽菌とその培養法について, 深度が異なる土壌中における炭疽菌の芽胞形成に関する研究, 嫌気性細菌に関する知見 第2報 破傷風菌, 動物におけるジフテリア免疫および破傷風免疫の成立について, 嫌気性細菌に関する知見 第3報 酸化的および還元的培地について, 破傷風毒素に関する実験的研究, インフルエンザ菌とその培養法について, 喀痰から採取した結核菌およびその他の病原性細菌の純粋培養, 免疫と耐毒性について, 破傷風に罹患した動物の治療実験, 結核に罹患したモルモットに対するツベルクリン療法について, 腺ペスト菌, 神戸と大阪におけるペストの流行に関する報告, ウシ結核(ペルズフト)に対する日本原産牛の反応, ウシ結核(ペルズフト)に対する日本原産牛の反応について, 日本におけるペストとの闘争, 日本におけるペストとの闘い, 日本におけるハンセン病, 日本における結核, 日本におけるペスト, 日本におけるペスト予防措置, エミール・フォン・ベーリング博士への書簡, エミール・フォン・ベーリング博士への書簡, 教授ローベルト・コッホ博士への挨拶, 第2回万国(国際)ハンセン病会議における挨拶, 第16回万国(国際)医学会議における挨拶, 通信、Dtsch. med. Wschr編集委員に対する北里柴三郎教授の公開書状, 第6回極東熱帯医学会における会頭演説, ラウソン医師からの通信、香港におけるペスト 人脈 [ ] 恩師・知友 [ ] 以下は北里研究所誌より。 - オランダ予備海軍軍医。 オランダ館の医師として来日。 1866年から1870年まで徳川幕府の依頼での前身ので教鞭をとり、1871年から3年間、熊本の医学校で教鞭をとった。 北里はマンスフェルトに呼ばれて特別な教育を受け、2年目からマンスフェルトの講義の通訳を務め、講義録を作成した。 後年、北里が有名になって母国に帰ったマンスフェルトに会っている。 - 世界的な細菌学者で北里の恩師。 1908年に来日したときは、明治天皇、森鴎外、北里などから国家的歓待を受けている。 鎌倉にコッホ碑、白金キャンパス敷地内にコッホ・北里神社がある。 - 北里のために伝染病研究所を建て、その運営のために結核専門病院である「土筆ヶ丘養生園」を建てた。 また、伝染病研究所の近所に自らの子息の1人を住まわせた。 - 福澤諭吉の求めに応じて私立伝染病研究所に多額の寄付をした。 - 長崎でマンスフェルトに師事したため北里の先輩にあたる。 文部省および内務省の医務局長として活躍した。 北里が最初に就職したときに世話になった。 - 内務省医務局長を経て衆議院議員。 伝染病研究所問題に関与した。 - 医師。 内務省に入ったのは北里の3か月前。 ライバルであったが、コッホより北里に師事するようにいわれ、親しくなり終生の友となる。 内務省衛生局長、東京市長を歴任。 - 同郷の政治家。 首相を務める。 政治的に北里の後ろ盾となる。 - 同郷の文学者。 郷土の北里の胸像の文字は徳富による。 - 北里の東大の同級生。 横浜十全病院の院長であったが、土筆ヶ丘養生園の診療に加勢。 長女を北里の次男に嫁がせている。 - 北里の東大の同級生。 生化学教授。 - ドイツ留学中に知り合う。 北里が学費の援助をした。 長い間協力関係があった。 - の創始者。 - の発見者。 手紙で情報の交換を行う。 - 食通仲間。 北里は木下の「美味求真」の序文を書いている。 - 1892年、北里は帰国に際し、パスツールに会いに行っている。 有名な細菌学者であるが、ドイツ語ができなかったためコッホとの確執が生じた。 - 北里の兄弟子。 1908年、免疫学でを受けている。 (1854 - 1917) - 北里との共著で1901年第1回ノーベル生理学・医学賞を受けている。 ほかに、、、、などと文通がある。 後進の育成 [ ]• (1857 - 1918) - 北里の熊本医学校時代の同輩。 慈恵病院を経て、海軍軍医、北里の伝染病研究所で、結核、ペストを研究。 北里を助けた。 (1862 - 1930) - 獣医。 1899年、国立伝染病研究所に入所。 ジフテリア免疫血清を作るなど活躍した。 (1858 - 1943) - 北里の東大時代2年後輩。 伝染病研究所の助手。 ペスト調査団として北里と石神が香港に派遣されたが、石神が発病したため香港に派遣された。 その後、台湾の電力会社社長になる。 (1865 - 1907) - 高知医学校、済生学舎を経て医師開業試験に合格。 ドイツ語を勉強した。 伝染病研究所に入所。 ツツガムシ病、破傷風を研究、欧米に先駆けて腸チフス診断液を作ったが、42歳の若さで他界した。 (1870 - 1956) - 東京大学卒業。 伝染病研究所に入所。 ドイツ留学ではベーリングのもとで研究し、帰国後、ハブ血清療法を研究。 北里研究所、慶應義塾大学医学部、中央衛生会、日本医師会、済生会などすべて北里の跡を継ぎ、その長になっている。 (1871 - 1957) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。 赤痢菌を発見。 エールリヒのもとで研究。 トリパノゾーマ原虫と色素を用い、エールリヒが考えていた化学療法が有効であることを証明した。 (1973 - 1938) - 岡山の医学部を卒業。 伝染病研究所に入所。 ペストを研究。 ドイツではワッセルマンのもとで免疫学を研究。 有功なを発見。 (1876 - 1928) - 済生学舎で勉強。 医師開業試験に合格。 1898年、伝染病研究所に入所。 ペスト患者を発見、ペスト菌を確認し、ペストの蔓延を防いだ。 アメリカに留学を希望した際、北里は知友5名宛ての紹介状を書いた。 最初は臨時職員であったが、北里に礼状を書いている。 ペンシルベニア大学ののもとで業績を上げ、正規職員になっている。 (1872 - 1944) - 医学から動物学に転向。 国立伝染病研究所に入所後、マラリア、ツツガムシ病、日本住血吸虫、ワイル氏病を研究した。 国際アヘン中央委員会委員、代議士としても活躍した。 (1884 - 1960) - 医師。 国立伝染病研究所に入所。 補体作用における特殊なメカニズム、コレラ菌と腸チフス菌の菌体毒素と菌体成分、サルバルサンなどを研究。 北里研究所創立に参加。 慶應義塾大学医学部教授。 厚生省予防局長。 北里研究所の第3代所長を務める。 (1880 - 1939) - 京都大学卒業。 国立伝染病研究所、ドイツ留学。 北里研究所内科部長。 慶應義塾大学内科教授。 養生園園長勤務。 (1889 - 1969) - 東京大学農学部出身。 国立伝染病研究所、北里研究所で研究。 サルバルサンの国内製造を目指して成功。 (1887 - 1969) - 京都大学出身。 伝染病研究所に入所。 破傷風血清、淋菌ワクチンを研究。 慶應義塾大学教授。 国立予防研究所所長。 らい研究所長を務める。 (1879 - 1920) - 京都大学出身。 伝染病研究所に入所。 結核のチアノクプロール療法を創始。 (1871 - 1913) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。 コレラとペストを研究。 (1873 - 1936) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。 医化学を研究。 脚気ビタミンの研究で知られる。 (1880 - 1954) - 済生学舎出身。 国立伝染病研究所でジフテリアを研究。 (1879 - 1936) - 東大卒業後病理学を専攻。 ドイツ留学ではフライブルク大学で勉強。 北里研究所部長。 1919年より慶應義塾大学病理学教授。 多くの俊英が集まった。 (1864 - 1945) - 結核病院養生院の事務長。 蓄財をよくし、北里研究所の設立に役に立った。 (1857 - 1942) - の6男。 養生園の医師。 (1866 - 1947) - 第五高等中学医学校卒後、養生園・伝染病研究所助手として細菌学を研究。 回春病院初代院長。 その他 [ ] 日本を代表する医学者としてと並び、当時は世界的に著名であった人物である。 野口は北里研究所に研究員として勤務しており、柴三郎とは形式上師弟関係である。 また、の筆頭設立発起人でもあり、CMにたびたび登場していたこともある。 門下生からはドンネル先生 との愛称で畏れられ、親しまれていた。 令和6年度(2024年度)上半期に執行が予定されるの紙幣改定において、北里柴三郎がの肖像として使用されることが決定し、平成31年(2019年)4月9日に発表された。 参考文献 [ ]• 『医学を変えた発見の物語(新訳版)』訳、、1998年()• 『ドンネルの男・北里柴三郎』(上・下) 、2003年(、)• (監修); 宇津野秀雄ら(編修) 『生命科学の原点はそこにあった 生誕150年紀念 北里柴三郎』 社団法人北里研究所、2003年。 『日本らい史』東京大学出版会、1993年()• 増田勇『らい病と社会問題』 丸山舎、1907年• 北里柴三郎、宮島幹之助、高野六郎『北里柴三郎読本 上』書肆心水、2013年( )• 北里柴三郎『北里柴三郎読本 下』書肆心水、2013年() 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 財団のウェブ・ページのエミール・ヴォン・ベーリングのBiographyには柴三郎の名が共同研究者として記述されている。 ノーベル財団の資料 には、「1960年まではほぼ排他的に欧米人に与えられた」と記述されている(ただし「人種差別が原因」とは記していない)が、生理学・医学賞については特にそのような言及はない。 大村によると11月とある。 大村によると帰国は1892年(明治25年)5月28日。 11月、内務省医務局に復職。 1892年(明治25年)10月、、の援助を受け内に私立伝染病研究所を設立。 11月30日、大日本私立衛生会の委嘱を受け伝染病研究所の所長に就任。 1893年(明治26年)9月、日本最初の結核「土筆ヶ岡養生園」を設立。 (の前身)• 北里のほぼ同じ成績が1907年の増田勇の著書に引用されている。 1885年の業績までは内務省時代である• で「雷おやじ」 の意。 内容は北里柴三郎伝と北里柴三郎論説編(前編)で底本は前は1932年に非売品として刊行された北里柴三郎伝と1978年の北里柴三郎論説集である。 前の方は北里柴三郎の名前があるが、宮島幹之助と高野六郎が執筆したことが分かっている。 旧版は非売品であったので、殆どの公共図書館に所蔵されていない。 出典 [ ]• 『』1988年3月28日。 www. terumo. 2019年4月16日閲覧。 2019年4月26日閲覧。 神庭亮介. BuzzFeed. BuzzFeed. 2019年4月9日閲覧。 北里大学. 2019年4月25日閲覧。 , p. , p. , pp. 22-23• , p. 著『石黑忠悳懷舊九十年』、、241頁。 (ページ番号記載なし)• (ページ番号記載なし)• , p. comアスパラクラブaサロン「科学面にようこそ」• 637-650, :, 日本細菌学会• 、明治16年7月18日。 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)• 2014年10月10日• A10113089700• 『官報』第4764号「叙任及辞令」1899年5月22日。 『官報』第6283号「叙任及辞令」1904年6月11日。 『官報』第7796号「叙任及辞令」1909年6月22日。 『官報』第584号「叙任及辞令」1914年7月11日。 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。 『官報』第1338号「叙任及辞令」1931年6月17日。 『官報』第2854号「叙任及辞令」1893年1月6日。 『官報』第3403号「叙任及辞令」1894年10月30日。 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。 『官報』第2169号「叙任及辞令」1919年10月27日。 『官報』第3439号「叙任及辞令」1924年2月13日。 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。 『官報』第1338号「叙任及辞令」1931年6月17日。 226• 佐藤清彦、青弓社, 1998• 『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚: 明治・大正』朝日新聞社 - 1997 p390]• 『人事興信録. 第14版 下』(人事興信所, 1943)pハ105• 『人事興信録. 第8版 昭和3年 』• 小澤敦、モダンメディア 58巻5号2012• 近代名士家系大観• 『大正人名辞典』東洋新報社、1917• 『大正人名辞典』東洋新報社、1917• コトバンク• , pp. 22-23• 犀川[1999:61]• 山本[1993:32]• , p. 104• , p. , pp. 50-53• 大村[2003:60]• , pp. 54-551• , p. 160• , pp. 138-158• 大村[2003:138]• プレスリリース , , 2019年4月9日 , 2019年4月9日閲覧。 産経ニュース. 産業経済新聞社. 2019年4月9日. 2019年4月9日閲覧。 ITmedia NEWS. 2019年4月9日. 2019年4月9日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 先代: 叙爵 男爵 北里(柴三郎)家初代 1924年 - 1931年 次代: 栄典喪失.

次の