かのう えい とく。 【安土城郭資料館】アクセス・営業時間・料金情報

狩野永徳を5分で!「唐獅子図屏風」はなぜ国宝じゃない?│れきし上の人物.com

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桃山時代の画家。 名は州信 くにのぶ。 祖父のを受け,早くから画才を発揮,に認められ,1576年の安土築城に際し起用され,一門を率いて天守や御殿のを。 のちに重用され,大坂城, じゅらくだい ,院御所,天瑞寺などの障壁画制作に従事した。 作品のほとんどは,建築とともに失われたが,の襖絵 ふすまえ 《花鳥図・琴棋書画図》は20代前半の作品で,《屏風》(上杉本)など,筆力の強さと動感に富む表現は,その天才を物語るもの。 永徳の素質と,専制君主の美的趣向との結付きによる豪壮闊達 かったつ な様式は,長谷川,海北ら諸派にも影響を与えて一つの時代様式をつくり,桃山画壇におけるの指導的地位を確立させた。 14 1590. 12 生年:12. 13 1543. 16 桃山時代を代表する画家のひとり。 曾祖父正信より続く京都の絵師の家に生まれた。 狩野松栄の長男。 天文21 1552 年,祖父元信が幼い永徳を引き連れて室町幕府将軍足利義輝への正月参賀に赴いたことが知られ 『言継卿記』 ,若年より祖父の訓育を受けて狩野家総領としての将来を嘱望されていたものと想像される。 三好長慶の菩提を弔って永禄9 1566 年に創建された大徳寺聚光院の障壁画は,父松栄と共に弱冠24歳の永徳が制作に当たったが,方丈の主室である室中は永徳が担当して「四季花鳥図」を描き,翌10年には近衛前久邸の座敷絵制作が記録され 『言継卿記』 ,活躍の片鱗がうかがえる。 30,40歳代の永徳は,織田信長の安土城 1576 ,豊臣秀吉の大坂城 1585 と聚楽第 1587 ,正親町院御所 1586 ,秀吉が生母天瑞院のために大徳寺山内に建立した天瑞寺 1588 ,京都御所 1590 など,時の権力者の建築物の室内を飾る障壁画をつぎつぎと手がけた。 城や御所などの大規模な建築の障壁画制作を一手に請け負うことができた理由は,すでに元信の代に仏画から肖像画,絵巻,画まで,あらゆる画法を修得して幅広い注文に応じられる工房制作の方式が整えられ,これを継承した工房の拡充に永徳が成功したことがあげられる。 同時に,元信の画法を基礎に置きながら,変化に富んだ時代と,新興武家などに拡大した受容者層の好みを先取りするスタイルを創り上げたことも大きい。 『本朝画史』 1693 に,武家諸侯が大邸宅を築いて金壁を設けるときは必ず永徳の画を求めた,と記されているように金碧障壁画にその手が発揮された。 しかも「長さ10,20丈もある松梅や3,4尺もある人物」を粗放な筆法で描き,水墨画の時は藁筆を使う「大画」は新意に満ちた怪々奇々のだったと評されている。 秀吉以降に造られた大広間の巨大な壁面のために永徳が工夫した画法が,桃山画壇に与えた影響は少なくない。 しかし,永徳のとなるべき多くの障壁画は建物と運命をともにして今には伝わらず,聚光院の障壁画のほか「唐獅子図屏風」 蔵 ,上杉本「洛中洛外図屏風」 米沢市蔵 ,障屏画の断片を掛幅に改装した「許由巣父図」 東京国立博物館蔵 と「伯夷叔斉図」など,従来から永徳画と考えられてきた遺品は少ない。 天正18 1590 年の八条宮智仁親王邸の障壁画と伝承される「檜図屏風」 東京国立博物館蔵 を,その作風から永徳画と判断する説があり,また,南禅寺本坊の障壁画の前身が正親町院御所のそれと推測されるので,この中に永徳画が含まれている可能性もある。 永徳の死後は,愛児鶴松の死を悼んだ秀吉が天正19年に創建した祥雲寺の障壁画 現智積院障壁画 の制作が一派の手に落ち,画壇での地位を一時脅かされたが,狩野家は,その後一族の勢力を結集し,徳川幕府に重用される門派の基礎を確保することに成功した。 『障壁画全集 大徳寺真珠庵・聚光院』,土居次義『永徳と山楽』,武田恒夫『日本の美術94号 狩野永徳』 至文堂 鈴木廣之 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 [生]天文12 1543. 京都 [没]天正18 1590. 京都 桃山時代前期の画家。 の長子,初名は源四郎,のち州信 くにのぶ と改名。 永徳は号。 祖父元信から直接絵を学び,早くからを発揮。 永禄9 1566 年 24歳で大徳寺聚光院客殿の『四季花鳥図』『琴棋書画図』襖絵 ともに を描き,翌 10年から近衛家の座敷絵を弟子とともに制作したことが『言継卿記』より知られる。 やがて織田信長の寵遇を得て,安土城の天守および御殿の障壁画制作を狩野一門の画人を率いて担当。 安土城は焼失したが,大画面構成による金碧障壁画は,当時の英雄趣味に合致してもてはやされ,桃山絵画の主流となった。 信長死後も引続き豊臣秀吉の恩顧を受け,天正 11 83 年大坂城,同 14年聚楽第,正親町院御所,同 16年天瑞寺などで次々に障壁画制作を行なったが,同 18年天正内裏に揮毫中,48歳で急逝。 これら障壁画は,南禅寺本坊大方丈障壁画中に永徳画遺在の可能性を残すほかはすべて建物とともに失われたが,雄大な永徳画風の一端は『唐獅子図屏風』 宮内庁三の丸尚蔵館 や『檜図屏風』 国宝,東京国立博物館 から知られる。 これら大画作品のほか『洛中洛外図屏風』 上杉家 のような細密画や,水墨の『許由巣父図』 東京国立博物館 も残るが,名声のわりに確実な遺品に乏しい。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 安土 あづち 桃山時代を代表する画家。 狩野松栄 しょうえい 直信 なおのぶ の長子。 名は初め源四郎、のちに州信、永徳はその号である。 幼年より祖父元信 もとのぶ の薫陶を受け、彼の天才はその期待によくこたえた。 1566年(永禄9)弱冠24歳にして、父直信とともに大徳寺聚光院 じゅこういん の障壁画 しょうへきが を制作、『花鳥図』『琴棋書画図 きんきしょがず 』を描く。 ことに前者は襖 ふすま 16面にわたって、松に鶴 つる 、芦 あし に雁 がん 、梅に小禽 しょうきん を近景的構図のうちに展開させたもので、ダイナミックな躍動感にあふれ、この青年画家のほとばしるような若さの発露の表現であるとともに、壮麗な桃山障壁画の開幕を告げる記念碑的大作である。 そうした永徳の大画面様式は、新時代の覇者織田信長、豊臣 とよとみ 秀吉の共感をよび、安土城(1576)、桃山城(1584)、聚楽第 じゅらくだい (1587)など、当代を代表する建造物の障壁画はすべて永徳の指導下に制作された。 わけても信長が築いた安土城の天守や御殿の障壁画は、『信長公記 しんちょうこうき 』が伝えるように、あらゆる画題、あらゆる技法を駆使したもので、障壁画史上画期的な偉業であった。 しかしこれら膨大な作品は建築物と運命をともにしたため、永徳の遺作はその巨名に比し意外に少ない。 そのなかで彼の代表作としてあげるべきものには、前記の聚光院襖絵以外に、1574年(天正2)信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風 らくちゅうらくがいずびょうぶ 』(上杉家)、『唐獅子 からじし 図屏風』(御物 ぎょぶつ )、『許由巣父 きょゆうそうほ 図』(東京国立博物館)がある。 南禅寺本坊大方丈の障壁画や『檜 ひのき 図屏風』(東京国立博物館)も彼の作である可能性が強い。 これらの障屏画 しょうへいが にみられる永徳の豪壮な様式は、単に狩野派のみならず、その後の桃山画壇に決定的な影響を与えた。 天正 てんしょう 18年9月14日没。 48歳。 さらにいっそうの飛躍が期待されてしかるべき年齢であった。 狩野永徳が1566年 永禄9 大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年 天正4 から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。

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狩野永徳(かのう えいとく)とは

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狩野秀頼筆 高雄観楓図 東京国立博物館 狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。 狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍に仕えた初代狩野正信とその嫡男・、元信の孫でやの障壁画を制作した、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、、などの障壁画制作を指揮した、京都にとどまって「」と称された一派を代表するなどが挙げられる。 江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派は、幕府の御用絵師として、内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。 膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は、一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。 そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。 こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。 ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、写生を重んじることで知られるやなど他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう。 芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。 しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。 近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の、写生派のなども初期には狩野派に学んでいる。 室町時代 [ ] 狩野元信筆 白衣観音図 ボストン美術館 狩野正信 [ ] 狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した(1434? - 1530)である。 彼は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。 正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)。 20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は足利()のと何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。 正信の画業として記録に残る最初の事例は、(1467 - 1477)の直前の4年()、30歳の時に京都の雲頂院(塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。 正信が壁画を描いた雲頂院の本寺であるは室町幕府3代将軍創建の禅寺で、、、らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・(小栗宗湛、1413 - 1481)が御用絵師として活動していた。 狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、室町幕府8代将軍・足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。 10年にわたった応仁の乱(1467 - 1477)終結の数年後の13年()、室町幕府の御用絵師であった宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府の御用絵師に任命されたものと思われる。 これ以後は、宮廷の絵所預(えどころあずかり)の職にあった大和絵系のと、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。 文明14年()、前将軍・足利義政は、東山殿(の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。 2年()の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていたに仕えるようになる。 正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。 記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。 その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。 正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の元信に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。 狩野元信 [ ] 狩野派隆盛の基盤を築いた、2代目・(1476 - 1559)は正信の嫡男で、文明8年()に生まれた。 現存する代表作は大仙院方丈の障壁画(方丈は10年()に完成)、12年()の霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。 大仙院方丈障壁画は、元信と弟・が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。 このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。 元信は時の権力者であった足利将軍や細川家との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。 武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあったの障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。 元信は晩年には「越前守」を名乗り、また「法眼(ほうげん)」という僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。 作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。 元信は父正信の得意とした漢画、にの画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。 また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。 安土桃山時代 [ ] 狩野長信筆 花下遊楽図(一双のうち) 東京国立博物館 国宝 元信には宗信、秀頼、直信の3人の男子があったが、長男の宗信は早世したため、宗家を継いだのは三男の直信(1519 - 1592)であった。 なぜ二男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。 直信は、道名のの名で広く知られ、室町から桃山に至る時代に活動した。 代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。 また、父・元信とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺聚光院(じゅこういん)障壁画制作には息子の永徳とともに参加しているが、父・元信と息子・永徳がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。 松栄の嫡男・(1543 - 1590)は州信(くにのぶ)とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。 、といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。 現存する代表作の一つである方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、父・松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を息子の永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。 封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。 聚光院方丈障壁画のうち、室中(しっちゅう、方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。 その後、永徳は4 - 7年(1576 - 1579年)、織田信長が建立した天守の障壁画制作に携わった。 信長亡き後は豊臣秀吉のやの障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。 これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅してしまった。 現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧の『唐獅子図屏風』、伝来の『屏風』が名高く、の『檜図屏風』も古来永徳筆と伝えるものである。 永徳は細画(さいが)と大画(たいが)のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。 細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。 近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。 国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野元信の次男・(生没年未詳)の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。 (そうしゅう、1551 - 1601)は元秀(もとひで)とも称し永徳の弟で、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。 屏風、肖像画などの現存作がある。 やはり永徳の弟である(1577 - 1654)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。 狩野家直系以外の絵師としては、川越・の『職人尽図屏風』の筆者である(1552 - 1640)、京都・の『豊国祭図屏風』の筆者である(1570 - 1616)らが知られる。 また、関東では元信の弟子筋に当たる 小田原狩野派といわれる絵師たちがおり、や玉楽、官南などの名が伝えられている。 江戸時代前期 [ ] 狩野興以筆 花鳥図 ホノルル美術館 狩野永徳は父の松栄(直信)に先立って48歳で没した。 その後を継いだのは永徳の長男・(1565? - 1608)と次男・(1571 - 1618)である。 光信は、勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な、風の繊細な画風を特色とした。 こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。 狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の(1597 - 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。 封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し後継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。 孝信には守信(探幽、1602 - 1674)、(1607 - 1650)、(1613 - 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。 末弟の安信は前述の貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。 守信は、後に出家して探幽斎と称し、画家としてはの名で知られる。 後に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。 探幽は幼少時より画才を発揮し、17年()、11歳の時に駿府でに対面、7年()には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。 探幽の作品のうち、江戸城と大坂城の障壁画は建物とともに消滅したが、上洛殿の障壁画(水墨)は第二次大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため空襲をまぬがれて現存しており、他に二条城二の丸御殿や大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。 これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。 二条城二の丸御殿障壁画は25歳の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。 絵巻や屏風には大和絵風の作品もある。 探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。 「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。 江戸時代中期以降 [ ] 江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。 「 奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「 表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「 町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。 この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。 また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。 こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。 奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。 奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の 鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の 木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の 中橋家、それに(みねのぶ、1662 - 1708)の系統の 浜町家である(岑信は、狩野尚信の長男であるの次男)。 探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(、1625 - 1694)を養子とした。 後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である(1653 - 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。 探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。 守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。 前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。 安信の子の(1642 - 1678)は30代で没し、その子の(もりのぶ、号は 主信 しゅしん、1675 - 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。 都会的な画風で人気を博した(はなぶさいっちょう、1652 - 1724)は安信の弟子であった。 奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の木挽町家である。 この家系からは尚信の嫡男の(1636 - 1713)、その子の(ちかのぶ、1660 - 1728)と(みねのぶ、1662 - 1708)らが出ている。 岑信は将軍・の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。 このほか、(? - 1636)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後にに仕えている。 また、も他家の出身ではあるが、狩野松栄に絵を学び、子孫は 表絵師の狩野家として幕末まで続いた。 一方、京都に残って活動を続けた「 」という一派もあり、狩野永徳の弟子であった(1559 - 1635)がその中心人物である。 山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。 京都・宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。 樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。 山雪の残した画論を、子の(1631 - 1697)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『』である。 木挽町家からは、江戸時代後期に(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、 (せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)などが出ている。 晴川院養信は、9年()と同15年()に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。 障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。 晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。 一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。 晴川院の次代の(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった(下関出身、1828 - 1888)と(川越出身、1835 - 1908)がいた。 芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。 職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。 画系図 [ ] 正信から探幽まで [ ] 1840-1872• 点線は養子。 参考文献 [ ]• 編 『江戸の狩野派』 〈日本の美術262〉、1988年3月• 松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 〈講談社選書メチエ〉、1994年10月、• 『狩野派絵画史』 、1995年12月、• 監修 安村敏信 山本英男 山下善也執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 〈別冊太陽〉、2004年9月、• 安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 、2006年12月、 展覧会図録• 『知られざる「御用絵師の世界」展 第1回江戸開府-元禄 徳川将軍家・御三家・諸大名家の美の系譜』 朝日新聞社編、1992年• 『狩野派の三百年』 、1998年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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「狩野(かのう/かりの)」という名字の人々

かのう えい とく

概要 [ ] 永徳はの息子で、の孫にあたる。 永徳は法号で名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)。 狩野派の棟梁として、という天下人に仕え、、などの障壁画を制作した。 永徳が力を振るったこれらの代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。 永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる(『』)。 現存する代表作の1つである上杉本『』は、彼が細密描写に秀でていたことを示している。 生涯 [ ] 12年()、松栄の長男としてで 生まれる。 最初に永徳の事績が記録に現れるのはの日記『』の天文21年()の条で、この日に狩野法眼(元信)が孫を連れて将軍・に拝謁したことが記録されており、この「孫」が当時10歳(数え年)の永徳と推定されている。 また、の筆頭であるとも関係が深く、10-11年(-)には(さきひさ)邸の障壁画を描いている(『言継卿記』)。 2年()の招きで、、、らと共にを経由しに下向(『中江周琳宛宗固書状』)し、の障壁画を描いた(『大友興廃記』)。 天正4-7年(-)には、弟のに家屋敷を譲った後に、に障壁画を描き(『』)、天正11年()には、天正14年()にはの障壁画を担当するなどやをはじめとする権力者に重く用いられた。 天正17年()にはのの障壁画を担当し、天正18年()にはの障壁画を描いた。 同年9月、永徳はの天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく死去した。 48(満47歳没)。 戒名は聴受院殿永徳法眼高信日意大居士。 墓所は。 死因は、現代風に言えばかともいわれている。 なお、東福寺法堂の天井画は永徳の下絵を元に弟子のが完成させたが現存しない。 子に、がいる。 代表作 [ ]• 聚光院障壁画() - ・ 聚光院方丈障壁画のうち花鳥図聚光院はの塔頭で、永徳は方丈の障壁画を父松栄と共に描いた。 永徳が担当したのは『花鳥図』16面および『琴棋書画図』8面から成る。 制作年代については従来聚光院創建の年である永禄9年()、24歳の若書きの作品とされていたが、画風の検討や方丈自体の建立年代の見直しから、かなり後の天正11年()とする説もある。 18年()より順次複製が制作され、オリジナルはにされる。 (国宝) - 京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)を鳥瞰的に描いた洛中洛外図の代表作、天正2年()に織田信長がに贈ったものとされる。 歴史資料としても貴重で、この屏風に描かれた人物の数は約2,500人という。 この屏風については描かれた都市景観から、制作年代についてさまざまに議論されてきた。 屏風に描かれた景観年代を天文16年()のものと見なす説など、景観年代については諸説あるが、1561年に造られた三好義興邸の冠木門が描かれていることも指摘されている。 - 唐獅子図天正10年()に秀吉がを聞きつけ畿内に戻るため、で急遽結んだ講和の際、その証としてに贈った陣屋屏風との伝承がある。 しかし、それを裏付けるは一切ない。 近年では、224. 3cmと本間屏風としては異例な大きさで、画面に複数見られる切り詰め部分から元は更に大きな作品だったと見られることから、元は本丸表御殿やなど、秀吉関係の城郭殿舎の大広間を飾る障壁画だったとする説もある。 期にに献上された。 画面右下に(永徳の孫)による「狩野永徳法印筆」との紙中極めがある。 後に永徳のひ孫に当たるが左隻を補作している。 『特別展覧会 狩野永徳』(平成19年()、京都国立博物館)においては以下の作品を永徳作としている。 大方丈障壁画() - 京都市・ 狩野派による共作。 天正14 - 19年( - )頃。 内、群仙図が永徳筆ではないかと言われる。 (国宝) - 伝永徳筆。 天正18年()?。 家旧蔵。 元は八条宮邸の障壁画であったと伝えられ、八条宮家の後身である桂宮に伝来し、明治14年()宮家廃絶後はに移管され、更にから東京国立博物館に移管された。 経年劣化による絵の具剥落や亀裂拡大の危険、襖を屏風に改装したことによって生じた各扇間の図様の不連続を解消すべく、2012年10月から2014年3月にかけて全面的な修理が施された。 修理までは八曲一隻だったが、四曲一双に改められた。 許由巣父図(許由)• (きょゆうそうほず)(重要文化財) - 東京国立博物館 伝永徳筆。 2幅からなる紙本墨画。 (重要文化財) - 伝永徳筆。 元はの塔頭の障壁画であったと伝えられる。 洛外名所遊楽図屏風 四曲一双 - 個人蔵。 平成17年()7月、京都の古物商で発見された(平成18年(2006年) 報道)。 落款等はないが上杉本洛中洛外図と描写法が良く似ており、上杉本より少し前の作か。 花鳥図押絵貼屏風 六曲一双 - 個人蔵。 中屏風に縦50cm弱、横35cm強の紙に、極彩色の花鳥画が12枚貼り合わされている。 永徳の基準印で、上杉本洛中洛外図と同じ「州信」円廓壺形印が捺されており印影も美しい事や、『本朝画史』に記された「細画」によく合致することから、永徳の若描きだと考えられる。 梔子に小禽図(墨画) - 京都国立博物館(2007年の「特別展覧会 狩野永徳」開催時点では個人蔵)• 老莱子図 - 山口・菊屋家住宅保存会• 二十四孝図屏風 六曲一双 - ら四僧賛• 四季山水図 六曲一双 - 伝永徳筆(左隻のみ、右隻は狩野元信筆)• 渡唐天神図 - ・ 賛• 柿本人麻呂図 - 賛• 旧日光院客殿障壁画 - アルカンシェール美術財団(ハラミュージアムアーク保管)• 織田信長像 - 絹本著色。 かつては大徳寺塔頭の総見院所蔵。 名古屋市の総見寺に狩野常信による本画像の模写が残り、その署名に永徳画に倣った旨が記されていることや、信長画像としてよく知られ、「兄に似て荒し」と評された弟画の本より本作の方が優れているとする意見が強い 事から、永徳筆の可能性が高い。 ただし、眼や鼻、口などの各部の描写は像全体の迫真性と比べ画一的で、息子の筆「豊臣秀吉像画稿」(蔵)の描写に近い。 本紙料絹に多数の折れや亀裂が発生し、絵の具の剥離・剥落が見られたことから、2008年9月から翌年10月にかけて解体修理が行われ、幾つかの発見があった。 一つは画像裏側の裏彩色 に表側と大きく異なる彩色や表現が多くされている事である。 表側のは薄藍色の一色だが、裏彩色においては、扇子を持つ右手側は、左手側は表側の肩衣袴と同系統の薄茶色に塗られ、いわゆる片身替わりで表される。 衣服に施されたの模様は、裏側の方が意匠が大きく、間隔を開けてゆったりと配置されている。 刀は表側は一本だが、裏面は・の二振りが表され、も裏面のほうが大きく幅も広く描かれる。 容貌は、裏彩色は口髭の端が上向きで、顎がやや細い、などの違いが見られる等、総じて裏側のほうが派手で威厳ある姿で描かれている。 裏彩色は表側の彩色を補完するための技法であり、本図のように大きな食い違いが見られるのは異例である。 一般に肖像画制作は、草稿の段階で絵師と注文主の間で入念な打ち合わせが行われたのち本画制作に移るため、このような大幅な描き直しはまず起らない。 裏彩色の剥落部分から覗く表側の彩色は現状の表側とは異なっており、元は表側も裏側と同じ信長像が描かれていたことは確実である。 二つ目は軸木の墨書から、天正12年()5月に表装され、17年()12月に改装された とわかり、制作時期がほぼ特定できる点である。 の研究員である山本英男は、天正12年5月は信長三回忌の直前である事と、先述した像に加えた大幅な改変、当時秀吉はで多忙で、喪主を信長と深い関わりある女性(のか? )が代行していた事情を考えると、一度鍋や永徳らの協議の末に完成を見た信長像に、法要の実質的な施主である豊臣秀吉が何らかの理由でクレームをつけ、急遽描き直させたと考えられるとしている。 しかし、においては同年にへ向けて発っており 、最初に戦場を離れたのは大坂に一時帰投した~である。 即ち、開戦から表装がなされた同年5月までは一貫して領内を不在にしている。 『特別展覧会 狩野永徳』以後に永徳作品として紹介された作品。 松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風 六曲一双 紙本墨画 - 蔵 旧蔵で、長い間売立目録でしか存在が知られていなかった作品。 作品を観察すると、画家の非凡な個性と若々しい意気込みが感じられる反面、経験不足からくる描写の未熟さが画面に垣間見られる事から、永徳の比較的若書きの作で、聚光院障壁画の数年前の作品だと考えられる。 瀟湘八景図 一幅 紙本墨画 - 個人蔵(九州国立博物館寄託、黒田侯爵家旧蔵 ) 現存しない作品 [ ]• 障壁画 - 天正4年(1576年)• 障壁画 - 天正13年()• 障壁画 - 天正15年()• 障壁画 - 天正16年() 天瑞寺は大徳寺内に秀吉が創建したものだが明治7年()、廃寺になった際、建物とともに障壁画も失われたとされる。 所在不明の作品 [ ]• 安土城之図 - 天正9年()以前 天正9年(1581年)、が安土を訪れた宣教師・に贈った安土城之図屏風は、「日本で最も優れた職人」「画筆を動かすのに最も巧なる画工」といた史料の記述から永徳筆と考えられている。 この屏風は安土城下や京で展示され、後にの手によって渡欧しにて()に献納された。 教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれるが、教皇の死後に屏風は行方不明となった。 59年()にはが、平成17年()には(現・)がそれぞれバチカンを調査したがいずれも発見には至らなかった。 画像 [ ] 洛中洛外図屏風 [ ]• 八曲一隻のままでは第4扇目と第5扇目の間で檜の枝に大きなズレが解消せず、修理後は変形を抑えるため下地骨自体を丈夫にするため屏風自体がより重く厚くなり、作品の移動や取り扱いがより困難になるなどの問題がある。 元々の状態に近い襖4面に戻すのも検討されたが、上下の画面がどの程度切り取られていたかは不明で必ずしも当初の姿とは言えず、保管時の安全性を確保できる収納方法が無く、屏風装の方がはるかに保存性が高いという理由から見送られた。 そこで、おそらく過去に一度もこの形態だったことがないという弱点はあるものの、総合的には最も保存や取り扱いが良く、図様の不連続も解消される四曲一双に改められた(神庭信幸 「国宝「檜図屏風」修理を巡る諸課題と保存修理環境の構築」『MUSEUM』No. 654「《特集》 国宝 檜図屏風 平成の大修理」、2015年2月15日、p. 20)• この肖像を初めて紹介した 『肖像画の視線 源頼朝像から浮世絵まで』(、1996年)以来、しばしば繰り返される。 絹の色が透ける性質を利用し、絵絹の裏から彩色することで、混色が難しい日本の岩絵具で淡い色合いを出し、表側の彩色を補完する技法。 また、裏から塗ることで、表側の絵の具とかみ合って吸着力を高め、剥落を抑える働きもする。 享保17年は信長150回忌の翌年にあたり、法要で用いたことが改装の契機となったと見られる。 谷口央は3月11日時点で近江国坂本にあったとする。 前者は 『』、後者はダニエルロ・バルトリ編 『イエズス会史』。 ただし、は『』天正八年八月十三日条に「けん七郎にかかせて」とあることから、同じ通称である父の松栄が描いたとする(『信長権力と朝廷 第二版』 岩田書院、2002年、174-177頁)。 また、松栄の三男で永徳の弟に当たる絵師に、「狩野源七郎」と呼ばれた絵師がいた可能性がある(『本朝画史』。 『丹青若木集』では「源三郎」と記載)事から、この源七郎が描いた可能性もある( 「南禅寺本坊大方丈障壁画の様式および筆者について」『国華』 903号、1967年。 後に『辻惟雄集 第3巻 障壁画と狩野派』 2013年に収録、p. 134)。 なお、永徳筆とする研究者は、この『御湯殿上日記』の記述を「源四郎」の誤記と考えている(図録『狩野永徳』、2007年、19頁)。 出典 [ ]• 『狩野五家譜』(図録『狩野永徳』、2007年、297頁)。 文化庁 文化遺産データベース• 川本桂子 『狩野永徳』 新潮社、1997年。 「狩野永徳筆 花鳥図押絵貼屏風」『』第1302号、2004年4月20日、pp. 20-29。 図録『狩野永徳』、2007年、262頁。 , p. , pp. 94-95. 辻惟雄 「狩野永徳筆 松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風」『国華』 1356号、2008年。 後に『辻惟雄集 第3巻 障壁画と狩野派』 2013年に収録、pp. 195-209。 なお、同論文では「」(静岡県立美術館蔵)を、永徳の瑞々しい感覚のこもった初期作だと指摘している。 「特集 狩野派の世界2009」展(平成21年()、)。 参考文献 [ ]• 松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 、平成6年()• 小澤弘、川嶋将生 『図説上杉本洛中洛外図屏風を見る』、、平成6年(1994年)• 『狩野派絵画史』、吉川弘文館、平成7年()• 川本桂子 『狩野永徳』 、平成9年()• 『狩野永徳の青春時代洛外名所遊楽図屏風』 小学館、平成19年(2007年)• 並木誠士 『絵画の変 日本美術の絢爛たる開花』、、平成21年()• 成澤勝嗣 『もっと知りたい 狩野永徳と』 、平成24年(2012年) 展覧会図録• 『都の形象 洛中・洛外の世界』、、平成6年(1994年)• 『狩野永徳』、京都国立博物館、平成19年(2007年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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