成せ ば なる 成 さ ねば 成ら ぬ 何事 も 成ら ぬ は 人 の 為 さ ぬ なり。 為せば成る、為さねば成らぬ何事も

「為せば成る為さねば成らぬ何事も」の続きと意味とは?英語で何て言うの?

成せ ば なる 成 さ ねば 成ら ぬ 何事 も 成ら ぬ は 人 の 為 さ ぬ なり

家系 [ ] 6代藩主の次男で、母は4代藩主の娘・春姫。 母方の祖母のが4代藩主の娘である。 このことが縁で、10歳で米沢藩8代藩主(綱憲の長男・の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。 兄弟のうち、兄・は高鍋藩主を継いだ。 弟のうちで他に大名となった者に主がおり、治憲と同様に幼くして相良家に養子に入ったものの、早世した。 正室は重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)。 側室の(綱憲の六男・の娘で、重定や春姫の従妹にあたる)との間に長男・(第10代藩主の世子)と次男・(満1歳半(数え2歳)で夭折)の2人の子がいる。 上杉家においての血統に基づく相続は(より近縁であるが)先例があり、綱憲は3代藩主の妹・の子(父は・)であったし、初代藩主からして藩祖の姉・の子であった。 ただし、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に、、、の4人の男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで10代藩主となった。 また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家(麻布上杉家)もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の(2代藩主)や勝職(旗本となる)がいた。 勝承は重定の養子の候補にもなっていた。 生涯 [ ] 4年()、主の次男として高鍋藩で生まれる。 幼名は 松三郎。 実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。 9年()、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。 10年()、主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、 直松に改名する。 宝暦13年()より出身のを学問の師と仰ぎ、明和3年()に、 勝興(かつおき、通称: 直丸)と称す。 また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。 10代のを受け、 治憲と改名する。 4年()に家督を継ぐ。 は、中頃には借財が20万(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万(実高は約30万石)でありながら初代藩主の意向に縛られ [ ]、越後120万石時代の家臣団6千人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。 そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。 深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、 「新品の金物の金気 を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。 さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」 といった洒落巷談が流行っていたほどである。 加えて農村の疲弊や、宝暦3年の普請による出費、宝暦5年()の洪水による被害が藩財政を直撃した。 名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。 新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るいや財政に明るいを重用し、先代任命のらと厳しく対立した。 また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。 ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた。 年間にはでを中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。 また、曾祖父(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を・(現)として・によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。 2年()、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、が勃発したが、これを退けた。 これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の時代に借債を完済した。 5年()に家督を前藩主重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていたに譲って隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。 隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。 2年()、剃髪し、 鷹山と号す。 この号は米沢藩領北部にあった(しらたかやま:現在のにある)からとったと言われる。 5年()の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。 72(満70歳没)。 法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は御廟の。 初め、に藩祖と共に祭神として祀られたが、35年()に設けられた摂社に遷され、現在に至る。 官歴 [ ]• 3年()7月18日 - に叙せられに任官。 明和4年()4月24日 - 家督相続。 同年12月16日を兼任する。 5年(1785年)2月7日 - 隠居。 同年同月11日に遷任。 侍従兼任は元のまま。 41年(1908年)9月7日 - 贈従三位 伝国の辞 [ ] 伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。 一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。 一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。 この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。 伝国の辞は、上杉家の明治のに至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。 妻子 [ ]• 正室の幸姫(よしひめ)は重定の次女(同母の姉妹は夭折)で、治憲の2歳年下であったが、脳障害、発育障害があったといわれている。 彼女は(明和6年)に治憲と婚礼を挙げ、(天明2年)に30歳で死去するという短い生涯であった。 治憲は江戸藩邸に側室を置かなかったうえ、幸姫を邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、ある意味2人は仲睦まじく暮らした。 重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという(現代の観点からは奇妙に感じるが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていないのである)。 後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、(明和7年)に治憲より10歳年上で上杉家分家の姫である(初め、お琴の方と称す)を側室に迎えた。 お豊の方は教養が高く、歌道をたしなんだという。 しかし、お豊の方との子である長男・と次男・は2人よりも早く死去し、お豊の方以外に側室を迎えることもなかったため、治憲の血筋は結局残らなかった。 養子として当主になった者が養父の実子に家督を譲るのはと呼ばれ、江戸時代ではさして珍しいことではない。 しかし、治憲があえて35歳の若さで隠居し、家督を治広に譲ったのは、重定が存命中に家督を継がせることで重定を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。 なお、治広には同母兄のがいたが、それを差し置いての後継指名であった。 人物・逸話 [ ] 鷹山によるの扁額• 元来頑丈で大病でも病床についたことはなかったようである。 着衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。 食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。 酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。 結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であった。 上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣で鷹山の傅役であったより訓言を記した一書を手渡されているが、鷹山は生涯これを机の近辺より離さず、また鷹山の業績はこれに基づいているとされる。 この書は現在、米沢市の上杉神社に保管されている。 米沢の名産であるの「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴という。 煙草を愛好していた。 また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。 一時期鳥の飼育を趣味にし珍しい鳥を何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたり、きっぱりとやめ飼っていた鳥を全て野に放っている。 また、隠居後に凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶を不味く感じるようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる。 有名な「 成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり 」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。 弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた。 「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」 武田信玄(1521-1573)の名言を模範にしたもの。 伊勢主・は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校を設立した。 これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。 扁額裏には治憲の署名と4年()とある。 に『』が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも、理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。 米沢藩である鷹山は、現在の民にも尊敬されている。 その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「 鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。 当時、米沢藩で奸臣と見なされていた [ ]の200回忌法要に香華料を捧げたという。 このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた。 江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。 近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに改革に専念する理由もあったからという考察がある。 [ ]なお、幕府は諸大名が隠居後に領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。 藩主の称号は謙信以来の 御様であり、隠居した先代は 大殿様であった。 治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、 中殿様と呼ばれている。 7年()8月に実父のの危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。 その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。 翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。 老婆の手紙 [ ] 6年12月6日(1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。 一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候 オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候 アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候 ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候 ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候 オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候 ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候 十二かつ六か トウベイ ヒデヨ おかのどの ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候 イサイショガツニオイデノトキハナスベク候 老婆の手紙と足袋(米沢市所蔵) ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。 取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。 そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門 に(門番に話を通しておくから)と言うのである。 お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)であった。 お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。 その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。 なお、「トウベイ」とはと推定されている。 『』のように、お忍びの殿様が庶民を手助けする話はよく語られるが、こうした実例が示されることは他にないであろう。 遠山村では元年()より、治憲が籍田の礼を行っていた。 これは古代中国の代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、の教えに則ったものである。 4の籍田で収穫された米は、と、城内に奉納され、残りは下級武士に配給された。 これは歴代藩主に受け継がれた。 この手紙の逸話については、の記録に、該当すると思われる記述がある。 手紙は現在、米沢市にて所蔵、展示されている。 ほぼで書かれ、現代人にも容易に読むことができる。 当時の、の一例としても興味深い。 改革について [ ] 鷹山存命中の藩政改革は、重定の寵臣で専制的なを粛清したをリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、前期の改革後の隠居から復帰したをリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。 米沢藩ではにおいて、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。 鷹山の治世において起きたにおいては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。 ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。 鷹山の推奨したの垣根は現在でも利用されている。 若葉は苦味があるが高温の湯や油で調理して食べられる。 根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。 日本で最も古くの廃止にも取り組んだ。 これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。 公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。 」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという。 年譜 [ ]• 元年()、江戸藩邸にて、と春姫(の娘)の次男として誕生。 幼名は直松。 宝暦9年()、米沢藩主との養子内約。 宝暦10年()、重定の世子となり、直丸に改名。 8月、上杉家桜田藩邸へ移る。 元年()、が師となる。 将軍に上杉家世子として。 重定、幕府への領土返上を舅の尾張藩主 に相談し、強く諌められる。 明和2年()、、奉行となる。 明和3年()、、勝興と名乗る。 従四位下弾正大弼に叙任さる。 将軍よりを与えられ治憲と改名。 明和4年()、重定隠居。 治憲が米沢藩主となる。 明和6年()、、米沢町奉行となり藩政にかかわる。 幸姫と婚礼をあげる。 10月、初めて米沢に入る。 明和7年()、の末娘(お豊と改名)を側室とする。 元年()、藩財政改革で『会計一円帳』作成開始。 米沢の遠山村にて籍田の礼を始める。 安永2年()、七家騒動。 安永5年()、学館を再興し、来訪した細井平州により「」と命名さる。 安永6年()、義倉を設立。 安永7年()、重定のために能役者金剛三郎を米沢に招く。 以後、金剛流が米沢に広まる。 2年()、幸姫病没。 義弟(重定実子)で世子の勝憲が元服、中務大輔に叙任され、将軍より偏諱を与えられと改名。 治憲実子の直丸を治広世子とし、と改名。 竹俣当綱失脚。 ( - 1786年)、それまでの改革が挫折する。 天明3年()、改革挫折で莅戸善政辞任、隠居。 大凶作で11万石の被害。 天明4年()、長雨続く。 治憲、謙信公御堂にこもり断食して祈願す。 20年計画での籾5000俵、麦2500俵の備蓄計画開始。 天明5年()、治憲隠居。 治広が家督を継ぎ、ここで「伝国の辞」を贈る。 顕孝傅役に世子心得を与える(「なせばなる」)。 3年()、莅戸善政、再勤を命じられ改革が再度始まる(寛三の改革)。 寛政6年()、実子の顕孝がで病没。 代わりに宮松()が治広の世子となる。 治憲は宮松と共に寝起きして、自ら教育に当たる。 寛政7年()、北条郷新堰(黒井堰)完成。 公娼廃止の法令を出す。 寛政8年()、細井平州、三度米沢に来訪。 治憲は関根普門院に師を出迎える。 2年()、となって 鷹山と号す。 『かてもの』刊行。 5年()、治広世子の定祥が元服、式部大輔に任官し、将軍より偏諱を与えられ斉定と改名。 文化9年()、治広がで隠居。 斉定が家督を継ぎ、従四位下弾正大弼に叙任さる。 4年()、お豊の方死去。 文政5年()、逝去。 文政6年()、米沢藩の借財、完済さる。 斉定、藩士一同とともに謙信公御堂にこれを報告。 鷹山の名声 [ ] 鷹山による米沢藩の藩政は在命中から日本全国のおおよそ280藩の中でも模範として幕府から称揚されていた、と小説家のは述べている。 特にの主導者であった老中からは高く評価され、鷹山を将軍拝謁のうえ「国政別格」と表彰されるよう取り計らっている。 定信は後に鷹山死去の報を聞いたとき、「三百諸侯第一の賢君が亡くなられた」と言って涙したとされる。 以降、鷹山はの教科書で数多く取り上げられた。 また、が海外向けの日本人論として英語で著した『』でも、鷹山の生涯が紹介された。 第35代にがに就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話がある。 1975年に綱淵謙錠と歴史家のを迎えて放送されたの歴史番組『』が紹介している。 それによると、ケネディは『代表的日本人』により鷹山を知り、政治家の理想像を見たのだとしている。 ただし、この逸話の真偽は不明である。 米沢の歴史を研究する小野榮は、ケネディが上杉鷹山を尊敬していると述べたというのは誤りで、鷹山を尊敬していると述べたのは、第26代大統領であり、彼が鷹山を知ったのは、が英文で出版した『』を読んだからだと述べている。 ジョン・F・ケネディの長女でをつとめていたは、やの要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをした。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• の禁に抵触して無嗣断絶となるのを回避するため、公家の子弟からが擁立された。 なお、当初は治憲が相良家の養子に所望されていたが、既に上杉家との養子話が進行中だったため弟が選ばれた経緯があった。 実際、家臣団の人数は47万石のにほぼ相当していた。 新しい鉄製の鍋・釜・鉄瓶などで湯を沸かすときに染み出る鉄臭い渋味• なお、の『諸大名御隠居方並御家督』で治憲の表記が「米沢侍従越前守藤原治憲」から「米沢侍従鷹山藤原治憲」に変更されたのは9年()からである。 現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々はの名言をコピーしたもので、武田信玄の名言「為せば成る、為さねば成らぬ。 成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」を変えて言ったものとされる。 「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、(武田家家臣の子孫と伝えられる山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。 [ ]• 米沢城は東門が正門で藩主専用、北門が藩士、出入りの者の通用門である。 このように言われているが、この時、宗勝は既に死亡している。 実際にはと思われる。 出典 [ ] []• A10110299500• 『武将列伝 江戸篇』〈文春文庫〉、2008年7月10日、新装版。 米沢市上杉博物館. 2009年7月20日閲覧。 村田昇. 2018年1月25日閲覧。 レファレンス事例詳細 Detail of reference example. レファレンス協同データベース 2012年8月1日. 2018年1月25日閲覧。 小野榮『シリーズ藩物語 米沢藩』現代書館、2006年、204頁。 日テレNews24 2014年9月27日. 2018年1月25日閲覧。 参考文献 [ ]• 、訳 『代表的日本人』〈岩波文庫〉、1995年。 『上杉鷹山』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1987年 [1968年]。 横山昭男編 『上杉鷹山のすべて』 新人物往来社、1989年。 安彦孝次郎『上杉鷹山の人間と生涯』サイエンティスト社、1994年(原著1942年)、三訂版。 『三百藩藩主人名事典一』新人物往来社。 関連書籍 [ ]• 『Representative Men of Japan』(1894年、改訂1908年)、新訳『』(岩波文庫、1995年)• 『上杉鷹山』(新潮社、1942年)• 『上杉鷹山の人間愛』(大鵬社、1943年)• 『近世日本経済史 上杉鷹山と米沢藩政史』(文化書房博文社、1973年)• 『上杉鷹山公』(鉱脈社、1978年) 題材とした作品 [ ]• 『小説 上杉鷹山』(学陽書房、1983年 のち集英社文庫、人物文庫)• 童門冬二『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫、1990年)• 鈴村進『「 人間通」の名指導者 上杉鷹山に学ぶ』(三笠書房、1992年)• 『』(文藝春秋、1997年 のち文庫)• 『上杉鷹山 財政危機を打開した名君の生涯』(PHP文庫、2002年)• 『上杉太平記』(1941年)(徳間文庫)、「全集第6巻」(、1972年)• 『上杉鷹山 勤倹殖産の父』(偕成社、1952年)• 『春の鷹 小説・上杉鷹山』(春陽文庫 1993年)• 『小説伝記上杉鷹山』(PHPエディターズ・グループ 2008年) テレビドラマ [ ]• 『』( 上杉鷹山:、竹俣当綱:、莅戸善政:、上杉重定:ほか) 『に取り上げて欲しい人物』として評価は高いといわれる。 [ ] 関連項目 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 旧商号の鷹山は上杉鷹山から。 - による著作 脚注 [ ].

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上杉鷹山の「為せば成る」という言葉の全文と表記が知りたい。

成せ ば なる 成 さ ねば 成ら ぬ 何事 も 成ら ぬ は 人 の 為 さ ぬ なり

日本語 [ ] 成句 [ ] せばる( )• (後続の句「為さねば成らぬ」以下を暗示して)ばかりして、をあげようとするを起こさなければ、決して成果を得ることはない。 天のとでも申しましょうか、のまですれば、必ずそのうしろにはの啓示があって道はと拓けてまいるものだと、わたくしは、画道五十年の経験から、とそう思わずにはいられません。 なせば成るなさねば成らぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり……の歌は、このあたりのことをうたったものであろうと存じます。 ( 『無題抄』)• (口語、現代語における曲解)やってみれば、とできるものである。 後者であれば「なさば成る」となるであろう。 由来 [ ] 江戸時代の米沢藩主・の「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という歌からと言われる。 なお、鷹山より遡り、の歌「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚き」からとも。 いずれも、『』中の「 弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん)」に基づくものと思われる。

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『成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成さぬは人・・・・・』この続きを知ってる...

成せ ば なる 成 さ ねば 成ら ぬ 何事 も 成ら ぬ は 人 の 為 さ ぬ なり

[動ラ五(四)]• 1 物事ができ上がる。 実現する。 成就する。 2 今までと違った状態・形に変わる。 ㋐ある時分・時期などに至る。 ㋑ある数値に達する。 4 ある働きをする。 作用する。 5 許すことができる。 許して、よいとする。 6 (「手になる」「筆になる」などの形で)その人によってつくられる。 7 (「…からなる」の形で)全体がそれによって構成される。 8 (「人の…になる」の形で)他からその恩恵を受ける。 9 将棋で、王将・金将以外の駒が、敵陣三段目以内に入ったとき、また、そこに打ったそれらの駒が動いたとき、裏返しになり、飛車・角行 かくぎょう は本来の働きのほかに金将・銀将の働きをあわせもち、他の駒はすべて金将と同じ働きをするようになる。 10 役や位につく。 任命される。 11 落ちぶれる。 なれの果てになる。 12 酒が飲める。 上戸である。 13 (「お…になる」「ご…になる」の形で)尊敬の意を表す。 …なさる。 14 (中世以降、動作を表す名詞に付いて)非常に高い敬意を表す。 …なさる。 …になる。

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